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世間では寝付いた病人を疎ましく思う家族もいるというが、右近には、むしろ幸いであった。少しずつ弱っていく母の顔を手拭いで拭き、粥を口に含ませ、着替えを手伝ってやることができた。十年をかけて、そうしてゆっくりと母の死に心の準備ができていった。
「これこそ、神に与えられた福音ではないか」と、右近は思った。
右近は座敷にあがると、母が寝ていたあたりの畳を、深く踏みつけないように歩いて、奥の仏間に入っていった。仏壇に線香をあげて、手を合わせると今日の報告をする。そして、仏壇の奥の厨子を開けた。
中には、まりあ観音と銀製のくるすが納めてある。
右近はごく小さな声でおらしょ(ラテン語で「祈り」)を唱えるのであった。
母の葬儀はすでに近くの寺で済ませてある。しかし、本当の葬儀はまだだ。月のない雨の夜を狙って、役人の目の届かないところで、静かに行わなければいけないからだ。できれば、司祭に祈りを捧げて貰いたいが、それも難しいだろう。
右近は厨子を閉じた。
そして仏間を出ようと仏壇に背を向けたが、妙に気になってもう一度振り向いた。
右近はじっと仏壇を見つめる。
朝、家を出るときに、庭の枇杷の木の枝を手折って、仏壇に供えた。その枝には、まだ固そうな枇杷が、三つ付いていた。
右近は、仏壇に近付くと、その枝を手に取る。
実が二つしかついていない。
「まだ固くて食べられたもんじゃない」
突然背後から声がしたので、右近は振り返った。
見知らぬ男が立っていた。
痩せているが、筋肉質で背の高い男であった。焼けた素肌に胴丸を付け、その上から百姓の野良着のような着物を着て、さらにその上から南蛮風の陣羽織を着ている。腰には大小の刀、のように見えるが、種子島火縄銃のこと。と脇差しを、大小の刀のようにして金襴の博多帯に差していた。さらに馬手の腰には南蛮渡来の短筒(短銃)が見える。
「枇杷を一つ頂いた」男は右近にむかってそう言う、「仏様に悪かったかな、いや、さてはデウス様か」
右近が刀の柄に手をかけると、男もまた身構えた。
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