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大人の男
あれから二年が経って、俺は変わった。大人免許は案外すんなり取得できた。大学も無事卒業し、小さな会社ではあるが就職も決まり、晴れて社会人生活が始まった。今日は会社の先輩と共に、初めて商談の現場に立ち会う。俺は春の少し強い風を真新しい黒のスーツを羽織った肩で切りながら、オフィス街を颯爽と歩いていた。
あと少しで先方のオフィスへ到着しようというときだった。角を曲がったところで、向こうから歩いてきた学生らしき男性と鉢合わせ、ぶつかってしまったのだ。と同時に男子学生が手にしていたコーヒーが俺の真新しいスーツに接触した。今朝おろしたばかりの真っ白なシャツに褐色の染みが浮かび上がる。男子学生が「あ」という表情で固まる。
――おいマジかよ。ふざけんなよ!――
と、以前の俺なら速攻で相手の襟元を掴んでいたことだろう。だが俺は変わった。今は大人の男なのだ。
「大丈夫?ケガしてない?」
大人ルールだ。いかなるときも感情的になってはいけない。怒りはさらなる怒りを呼び、平和的解決を遠ざける。男子学生は相変わらずぽかんとした表情。小さく「すんません」と言った気がした。ああ、こいつは「子ども」だ。尚更対応には気を付けなくてはいけない。「大人」は「子ども」の模範となる立ち振る舞いをしなければならない。これも大人ルールなのだ。
「気にしなくていいから。ジャケットで隠しちゃえば分からないし。それよりごめんね。コーヒーダメにしちゃって」
俺はそう言って内ポケットから長財布を取り出し、五百円硬貨を一枚男子学生に手渡した。
「あ、いや……別に……」
「じゃあ、行かなくちゃいけないから。次から気を付けてね」
俺は名も知らぬ男子学生に向かって軽く手を挙げながら、彼を追い越して取引先へ向かった。
常に冷静に、平和的な解決を心がけること。「子ども」が憧れる「大人」であること。それがこの国の大人に求められる理想の大人像だ。大人免許を取得して二年、俺はこの理想の大人像をひたすら「演じて」きた。始めは大人の対応ができる自分に気持ちよさを感じてすらいたのだけれど、徐々にそれはストレスに変わりつつあった。
そのストレスが自分の中の小さな器から溢れだすまで、さほど時間はかからなかった。
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