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「うん、ちょっとね。」
髪の毛が生えてきたんだ、なんて言えるわけない。
俺は曖昧な言葉でお茶を濁す。俺は毎日、その育毛剤を振り掛け続けた。
その効果はてきめんで、グングンと髪の毛が生えてきた。その所為か、職場でのミスがほとんど無くなった。自分に自信が出てきた所為だろうか。心なしか、少々のことには動じなくなってきた。
トラブルがあっても、今まではオロオロするばかりの情けなかった自分が、まったく動揺せずに応じることができるようになり、最近では周りから頼りにされるほどになってきたのだ。髪の毛だけで、こんなにも物事が上手く行くものなのか。
「ねえねえ、最近佐古田さんって、ちょっと素敵になってない?」
「うんうん、何だか髪の毛も増えてきた感じだし。何か良い育毛剤でも使ってるのかな?」
給湯室からそんな話し声が聞こえてきた。
以前の俺なら、ショックで立ち直れないような話題だが、何故か不思議と何も感じなかった。
「なんだか、落ち着いた感じになったよね。自信に満ち溢れてるっていうの?それに、佐古田さんって髪の毛があると、割とイケてるよね?」
「うんうん。私、ちょっと狙っちゃおうかなあ。1ヶ月前、カレシと別れたばっかりなんだよね。佐古田さんなら大事にしてくれそうだし。」
「ちょっと待ってよ。アンタなんて、すぐにカレシと別れるくせに。佐古田さんはアタシが目をつけてるんだからね。横入りしないでよね?」
以前の俺なら、飛び上がって喜ぶような話題だが、何故か不思議と何も感じなかった。
あれ?俺、どうしちゃったんだろ。
ちっとも嬉しかったり悲しかったりしない。
給湯室の女子トークをよそに、そんなことを考えていた。
育毛剤を使い続けて1ヶ月もすると、俺は元ハゲだったことはほとんどわからないほどに、髪の毛が生えてきた。俺にとっては、とても喜ばしいことであるはずなのに、何だか喜びが沸いてこない。
最近では、育毛剤を振り掛けることが義務か習慣のようになっていた。なんなんだろ、この虚無感は。
そんなことを考えながら鏡を見ると、髪の毛にある異変を見つけた。
「あれ?髪の毛の先が。なんか、二つに分かれていないか?」
よくよく近づいてみると、なんだか枝毛のように割れている。
俺はさほど気にせず、会社へと向かった。
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