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「なるほど、〈肝心なことは目では見えない〉のですね」
サンテグジュペリの星の王子さまだった。
「たしかに、この部屋の湿気は目では見えないね」
「それは〈肝心なこと〉なのですか?」
「ピイ、ぼくの心のじめじめを取り払ったように、この部屋のじめじめも取り払ってはくれないか」
「わたしは水とりぞうさんではありませんよ」
もっともな意見だった。ピイは聡明である。
私の声は低く細くかすれていた。ラジオにまじるノイズめいている。社会の雑音を構成する私であるからそれはきっと相応しいのだ。引き換えピイは管楽器の音色のように澄んだ声をしている。ピイが話すたびに、この世にあるスポットライトのすべてをその身に浴びてもおかしくないと思う。しかし、実際に浴びているのはボロアパートの切れかけの蛍光灯で、その美声の聴衆は私ひとりだけなのだった。
私はピイの隣に腰かけた。布団が大きく潰れて、座ったところが傾斜になったピイはこちらにもたれかかってくる。私の左半身を背もたれにしたまま、ページを繰る。
ピイは雪女の吐息のような髪を縛って左の肩から胸もとにかけて流していた。ロングTシャツを着て、ショートパンツを穿いている。暑いのか寒いのかどっちなんだろう。首から上は神話めいているのに、首から下は現代であった。
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