2 夏娘(カレイニャ)

1/4

110人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ

2 夏娘(カレイニャ)

それは、午後一番に鳴った、龍一の携帯の無愛想な着信音から始まった。 「何度言ったらわかるんです。俺はもう引退した身です。 それにこの番号だって、つい先週変えたばかりだ。それなのに、なぜあなたは平然とかけて来るんです?」 龍一の電話の相手は、かつての龍一の上司らしい。 龍一が電話のこちら側で怒鳴り散らしているように、龍一はこれまで何度も電話番号を変えたり、携帯会社そのものを変えたりしているのだが、 いつもひと月もたたないうちに、同じ相手と同じ会話のやりとりをしている。 美百合だって、かつて、教えた覚えのない龍一から電話をもらったことがあるから、秘密工作員なんてそんなものだと、すっかり慣れて驚きもしないが、 それでも、かかってくる電話のうちの何回かに一度は、龍一が美百合を置いて、数日出かけて行くのが気に入らない。 『スパイ』の仕事はもう引退したはずなのに、出かける理由はいつだって秘密だ。 そんなことは龍一を生涯の相手と決めた日にとっくに覚悟していたはずなのに、龍一が傍にいてくれるようになって、美百合は少し贅沢になった。 幸福な毎日を知ってしまうと、不安な夜はもう辛すぎて耐えられない。 龍一は美百合に背をむけて会話を続けている。 「ストロベリードロップス? 何ですかそれは?」   龍一がどんどん不機嫌になっていく会話の内容も気にかかるが、それよりも今日の美百合は、ちょっと体調がおかしい。 『最近、忙しかったせいかな』 龍一にバレないようにそっと汗を拭うが、次から次へと額ににじんでくる。 『ちょっと暑い、かな』 美百合はイチゴを収穫した箱を一旦降ろすと、エプロンの紐を解いた。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

110人が本棚に入れています
本棚に追加