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速水の家へ行って、1週間ばかり経った頃だ。その日は、朝から、小雨が降り続いていた。
昼過ぎ、クライアントの元へデザイン案を届けた帰り道、踏み切りの遮断機が下りてきたから、車を止めた。
その踏み切りへ、ふらふらと、近づいていくずぶ濡れの女がひとり。
「…マズイ!」
それは、直感というよりも、共鳴に近かったのかも知れない。同じ事をしようとしたことのある俺は、わかったんだ。彼女は、死のうとしてるって。
俺は、慌てて、車を降りた。
車が、仕事用に乗ってる外車でよかった。普段、使ってる軽四の国産車なら、ドアが逆だから、間に合わなかったかもしれない。
ガシッと彼女の肩を掴まえる。
「ダメだよ!変なこと考えちゃ!」
そのときになって、気が付いた、彼女は、赤ちゃんを抱いていた。
「…………。」
涙を一杯溜めた瞳は、悲しみに満ちていた。
俺に、止められたことを罵るでもなく、喚くこともなく、彼女は、赤ちゃんを抱き締めたまま、崩れるように座り込んだ。
遮断機が上がったが、近くに、俺の車以外、見当たらなかった。
「体が冷えるから、とにかく、車に乗って。」
俺の言葉に、嫌々と首を振るが、構わず言った。
「赤ちゃんに、風邪を引かせるつもりなのかい、君は?」
その言葉に、腕の中にいる赤ちゃんの存在が、彼女の中で、重みを持った。
彼女は、ふらふらと、立ち上がると、素直に俺についてきた。
踏み切りの先に、コンビニがあるのを思い出す。移動して、駐車場の片隅に、車を停めて、走り込む。
戻ってきた俺は、彼女に、タオルを差し出した。
「ほら、タオルで拭いて。ちょっとは、ましだろ。赤ちゃん、ちゃんと拭いてやれよ、風邪引くから。」
「座席、濡らしてしまって…。」
「そんなの構わないよ。俺が、座れって言ったんだし、後で、手入れすりゃ済むことだ。だけど、人間は、そうは、いかないからな。特に、赤ちゃんは、抵抗力ないんだから、親がちゃんとしてやらないと。」
当たり前のことを言っただけなのに、彼女は、大きな声で、泣き始めた。
心を塞き止めていたものが壊れて、溜め込んでいた思いが、濁流のように溢れてしまったのだろう。
俺は、優しく背中を撫でていた。
…彼女が、落ち着くまで、その側で。
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