私を忘れないで…

2/20
前へ
/226ページ
次へ
速水の家へ行って、1週間ばかり経った頃だ。その日は、朝から、小雨が降り続いていた。 昼過ぎ、クライアントの元へデザイン案を届けた帰り道、踏み切りの遮断機が下りてきたから、車を止めた。 その踏み切りへ、ふらふらと、近づいていくずぶ濡れの女がひとり。 「…マズイ!」 それは、直感というよりも、共鳴に近かったのかも知れない。同じ事をしようとしたことのある俺は、わかったんだ。彼女は、死のうとしてるって。 俺は、慌てて、車を降りた。 車が、仕事用に乗ってる外車でよかった。普段、使ってる軽四の国産車なら、ドアが逆だから、間に合わなかったかもしれない。 ガシッと彼女の肩を掴まえる。 「ダメだよ!変なこと考えちゃ!」 そのときになって、気が付いた、彼女は、赤ちゃんを抱いていた。 「…………。」 涙を一杯溜めた瞳は、悲しみに満ちていた。 俺に、止められたことを罵るでもなく、喚くこともなく、彼女は、赤ちゃんを抱き締めたまま、崩れるように座り込んだ。 遮断機が上がったが、近くに、俺の車以外、見当たらなかった。 「体が冷えるから、とにかく、車に乗って。」 俺の言葉に、嫌々と首を振るが、構わず言った。 「赤ちゃんに、風邪を引かせるつもりなのかい、君は?」 その言葉に、腕の中にいる赤ちゃんの存在が、彼女の中で、重みを持った。 彼女は、ふらふらと、立ち上がると、素直に俺についてきた。 踏み切りの先に、コンビニがあるのを思い出す。移動して、駐車場の片隅に、車を停めて、走り込む。 戻ってきた俺は、彼女に、タオルを差し出した。 「ほら、タオルで拭いて。ちょっとは、ましだろ。赤ちゃん、ちゃんと拭いてやれよ、風邪引くから。」 「座席、濡らしてしまって…。」 「そんなの構わないよ。俺が、座れって言ったんだし、後で、手入れすりゃ済むことだ。だけど、人間は、そうは、いかないからな。特に、赤ちゃんは、抵抗力ないんだから、親がちゃんとしてやらないと。」 当たり前のことを言っただけなのに、彼女は、大きな声で、泣き始めた。 心を塞き止めていたものが壊れて、溜め込んでいた思いが、濁流のように溢れてしまったのだろう。 俺は、優しく背中を撫でていた。 …彼女が、落ち着くまで、その側で。
/226ページ

最初のコメントを投稿しよう!

100人が本棚に入れています
本棚に追加