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なにはともあれ。どうやら危機は去ったようだった。店員には悪い事をしたなとトイレの扉を開かない様にしてきた事を心の中で反省する。
「いや、びっくりしたな。人に殴られるというのがあんなに痛いものだとは」
直哉が自分の左ほほを手でさすっている。さっき殴られた場所だろう。気持ち腫れているようにも見える。
「喧嘩したことあるんじゃないのか」
「喧嘩なんて小学生の時、孝介とやって以来したことなんてないぞ」
当たり前の事の様に言う。俺は呆れて肩を落とした。
「じゃあ、喧嘩に自信があるわけでもないのに、なんで喧嘩を吹っ掛けたんだよ」
あんなに相手を挑発していたんだ。少なくとも何かしらの手立てはあるんだと思っていた。
直哉が殴り倒されるまでは。恐らく、まったくのノープランだったのだろう。
そう思ったからこそ、真っ先に逃げる選択肢を選んだ。
「なぜって。あの人達。困ってたじゃないか。困ってたから助けてあげようとしたんだ」
あっさりと言う。それが当然だと言わんばかりに。
「それでも、普通は何か考えてから動くものだろう」
呆れてものも言えない。
「それは良くない」
直哉は真剣な表情で言った。
「自分にはできないかもしれないから。周りに迷惑をかけるかもしれないから。いまここで誰かを助けようとしても自分にはできない。ここで助けても別に感謝されないかもしれない。むしろ騒ぎになって余計困らせる事になるかもしれない。
どうでもいいんだ。そんな理由は。損得感情も道理も心情も倫理観も関係ない。目の前に困っている者がいて、助けたいと思ったら。ただ助ければ良いんだ。どんな理由も言い訳も関係ない。ただビシビシ助ければいいんだよ」
直哉は淡々と語った。言っている事は無茶苦茶だ。やりたいと思っても出来ない事はある。出来ないと思えば人は動けなくなる。
そんな事をまったく考えていない考え方だ。
それでも、俺は。
直哉が羨ましかった。
「とりあえず、皆と合流しよう」
直哉が歩きだしたので後に続く。
夜の喧騒が騒がしかった。乱れた息がようやく整い始めた頃、雑踏にまぎれるように呟いた。
「国枝若菜じゃないか」
「え?」
雑音に紛れて、上手く聞き取れず聞き返す。
直哉は前を向いたままもう一度言った。
「たぶん。さっき孝介が言っていた友達って国枝若菜の事だ」
「国枝若菜」
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