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春君に見送られながら目的の病室に向かう。
階は違ったけれど、それほど遠い場所ではなかった。自分の病室を出てからものの数分の亜希子の名前が書かれた病室の前に僕は立っていた。
目の前の扉をゆっくりと開く。
六人部屋であるはずのその病室には人気がなかった。
検査かなにかだろうか。数名の患者の名前が表示されていたにもかかわらずベットの上に人の姿はなかった。
一番窓際のベットにだけカーテンが引かれていて、人がいるようだった。
表札をもう一度確認する。そこが亜希子のベットだった。
無意識に足音を立てないように近づく。
「失礼します」
敬語で告げてからカーテンを開く。
中にはベットから背を起こした亜希子が座っていた。
その手には一冊のノートが開かれていた。
見覚えのあるノートだった。
それもそのはずだった。それは亜希子が捨てた過去だったからだ。
亜希子の部屋のゴミ箱に投げ捨てられた。亜希子の人生だったからだ。
記憶。日記。
亜希子が自分の全てを綴っていた日記だった。
中田に復讐すると決めた時、亜希子が捨てたものだった。
体が一瞬硬直する。その時にようやく僕の存在に気がついたのか亜希子が視線を上げた。
僕と視線が合う。
「あの……」
僕が口を開くよりも早く亜希子が言った。
「どちらさまでしょう?」
亜希子は。やはり。
僕のことを覚えていなかった。
僕は亜希子の質問には答えず、手元にあるノートを指差していった。
「それは? どうされたんですか?」
視線を自分の手元に落とし、僕に困ったような笑顔を向ける。
「何なんでしょう?」
首をかしげる。その様子が、あまりに困惑した表情で思わず視線を逸らした。
「どうも、私がかいていた日記らしいんですけど」
言いづらそうに亜希子は言葉を繋ぐ。
「現実味がないっていうか、まるで小説家何かを読んでいるような気持ちになります。本当にこれは私の日記なんですかね?」
僕が無言でいると、慌てたように両手を左右に振る。
「ああ。ごめんなさい。初対面の人にこんな話して……」
そこまで言って、何かに気がついて口を塞ぐ。
「あ、れ? もしかして初対面じゃないですか?」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「私、イマイチ記憶がはっきりしてなくて、もしかして知り合いの方だったら本当に申し訳ありません」
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