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僕だって、わざわざこの森を通りたいわけではなかった。怖い思いをせずに、危険を冒さずに済むのなら別の道を選んでいる。それなら何故ここにいるのかと問われれば……答えは僕自身が一番知りたい。
なんせ、隣町を目指して歩いていたら、いつの間にか森の中だったのだから。
「それで、何をしてるのかな?」
彼女は僕の前にしゃがみ、顔を覗き込んだ。真っ黒な瞳に自分の姿が情けなく映っている。
「さっき熊か何かに追いかけられて、必死に逃げてたら転んでしまって……」
正直に、なおかつ簡潔に事情を説明すると、女の人は「へぇ。大変だったね」と微笑んだ。言葉の割に、声音には労いも同情も孕んでいないように感じた。
「ま、本当に追いかけてきたのが熊だったら、君はここにいないけど」
さらっと物騒な言葉が聞こえてきた気がするが、聞き返す間もなく彼女は
「隣町まで付き合ってあげようか?」
「……えっ、助けてくれるんですか?」
「意外そうに言わないでよね」
ほおを膨らませ、立ち上がって「ほら」と僕に手を差し伸べる。
本当に信用して大丈夫だろうか。
初対面の、見ず知らずの相手を助けてくれる存在がたまたま現れるなど、日和見主義もいいところではないのか。何か裏があるのではないか。
だが仮に疑念が的中しているとしても、この手にすがる以外の選択がないのも確かなのだ。ゆっくりと上半身を起こし、手を握る。女の人はぐいっと引っ張って僕を立ち上がらせた。
派手に転んだと思っていたが、浅い切り傷やかすり傷の他に怪我はなかった。歩行は問題なさそうだ。
「これ以上進むのは危ないから、とりあえず寝られる場所を探しましょ」
こっち、と歩き出す彼女を見失わないよう、数歩後ろをついていく。まるでこの森を熟知しているように、足取りには一切の迷いがない。
この人は、何者なのだろう。彼女こそ、こんなところで何をしているのだろう。僕と同く目的地があるのだろうか。だとしたら、それこそ『こんな森を通って』?
視線に気づいたのか、女の人はこちらを一瞥すると「何?」と声をかけてきた。
「あ、いや……。あなたは、何者なのかなと」
言葉を選ばずに、抱いた疑問をそのまま投げかけると
「別に、ただの旅の者だよ。君だってそうでしょ?」
「え。僕、ですか……?」
「懐かしいなぁ。わたしも、そんな軽装備で旅を始めたっけ。何にも考えないで旅をしようとだけ思ったんでしょ」
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