第7章 妥協

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「ん? どうしたの? 何か顔色悪いみたいだけど……」 「ちょっ、ちょっと、トイレ行ってきます」  修一は振り返り、その内股気味におぼつかない足取りで急ぐ後ろ姿に向かって、 「あれ? さっき行ってたんじゃ……」と言いかけたが、視界の隅に捉えた白いレジ袋がその口を噤ませた。どうやら横山は花見客の置き土産にあたってしまったようである。  修一は、「トイレの傍を片時も離れたくない」という横山の意思を尊重し、一緒に服を買いに行くのを諦めた。代わりにひとりで上本町六丁目周辺を散策し、ダイコクドラッグでセイロガン糖衣A(六百八十円)を買ってきて、横山に飲ませた。 「やっぱりカニ味噌がいけなかったんすかねぇ」  夜、ベンチに寝そべりながら横山が呟いた。この頃には薬が効いたのか、下痢の症状も治まっているようだった。 「拾って食べるのには適さない食材だね。蟹だけでなく、甲殻類全般について言えることだと思うけど」  修一は隣のベンチに座り、パイプを燻らせながら、満月を眺めていた。 「……だけど、あんな食べ方されたんじゃあ、カニも浮かばれませんよ。大雑把というか何というか」 「うん。人間の驕りかもしれないね。現代人は生き物を殺して食っているという自覚に乏しいんだ。今回の横山君の苦しみは、ある意味、贖罪になったのかもしれないよ」 「な、なんで俺が」横山は不満そうに言う。 「世の中の仕組みって大抵そういうものだよ」  翌日ふたりは、午前中に露店とユニクロで横山の服や靴を一式揃えた。難波の立ち食いうどん屋で腹ごしらえし、その足で鳥之内図書館へ向かった。服装を新調した効果か、警備員に睨まれることも、職員に付き纏われることもなかった。いつものように本を選び、ソファーに陣取る。近くのコンセントを拝借し携帯を充電させて貰った。  腹の上に本を開き、柔らかい背凭れに体重を預ける。全身が沈みこんでいき、思わず吐息が漏れた。小春日和の午後、程良く腹も満たされている。瞼を閉じると肉体の感覚が徐々に失われていき、意識が遠のいていった。  断続的に鳴り続ける微かな異音が、徐々に修一の意識を現実へと引き戻していった。どれくらい眠っていたのだろう。眩しさに顔を顰めながら上体を起こす。腹に載せていた東洋医学の専門書を膝の辺りで慌てて受け止める。
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