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「お爺ちゃん、おはよう」
あの日、威勢の良い啖呵を切ってしまった手前、当初祖父との暮らしは気まずいものであったが、経済的に凭れかかっているという負い目が、徐々に緑の態度を改めさせた。
「おい緑、時間は大丈夫なのか。もう七時半をまわっとるぞ」
慶一郎にしてみても、あの頃は一時的な反抗期として処理されているのだろう。特別、根に持ってはいないようだ。
「うん、まだギリ大丈夫だよ」
「朝食は摂らないつもりなのか」
「ゴメン、ちょっと無理かも」
「じゃあ、わしが駅まで乗せてってやるから、車の中でパンだけでも食べていきなさい」
ただ正直に言えば、内心では慶一郎に対し、反吐がでるほどウザいと思うことが多々あった。しかしその気持ちを心の奥底へと仕舞い込み、表沙汰にすることがなかったので、今のところ割合良好な関係が続いているのである。
大型の黒いセダンが時折タイヤを軋らせながら坂道を下っていく。元警察官僚の癖に法定速度をあまり気にかけていない慶一郎のお陰で、緑は余裕を持って最寄駅に到着することができた。車から降りると十二月の寒風が首に巻き付いて、マフラーを忘れたことに気付かされた。
改札を潜り三番線上りホームへの階段を昇っていると、背後から甲高い声が聞こえてきた。
「緑ー!」
何故、朝一からそんなにハイテンションなのだろう。血圧が高いのであろうか。そのうちポックリ逝ってくれるかもしれない。
「あっ、広美、おはよう」クラスメイトを無視するわけにもいかず、緑は低血圧の体に鞭打ち、極力明るい声を出す。
ホームで隣に並ぶと、やや小柄な及川広美が何故かじっと緑の顔を見つめてくる。思わず反射的に睨み返しそうになるが、何とか己を抑制し目を泳がせた。
「何か付いてるよ」広美が緑の顔を指差す。
指で拭うと苺ジャムが顎に付いていた。さっき車の中で、トーストに塗って食べたのだ。
「ねえねえ、今の人誰?」
「えっ」
「レクサスで送ってもらってた人、緑のパパ?」
この女の言う『パパ』は、本来的な父親を指しているのか、若しくはパトロン的な意味合いなのか? 因みに慶一郎は七十を超えている。シバきたい気持ちを押し殺し、
「違うよ、お爺ちゃんだよ」頬を引き攣らせながらも緑は陽気さを装って答えた。元来緑は、父親を『パパ』などと呼ぶ軟弱な女も気に食わないのだ。
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