第3章 路上

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 この頃、何もやることがないと暗いことばかりが頭を支配し、時折妙な発作に襲われるようになっていた。発作が起こってしまえば、自分が自分で無くなるような混乱した状態に陥り、原因不明の恐怖が体を支配する。一度そうなってしまえば、冷や汗を流しながら身を竦ませ、治まるのを待つ以外に方法はなかった。  しばらくすると発作の前兆と思しき焦燥と不安が、じわじわ頭をもたげてきた。まるでそれらに追い立てられるように、修一は家の中を歩き始めた。気を紛らわそうとしていたのだ。自分の存在が鬱陶しくて堪らなかったが、極力何も考えないように、歩くことだけに集中しようとした。六畳の畳部屋から四畳半の板間を通り過ぎ、玄関の前を横切り、狭い台所を通り抜け、また六畳間へ戻る。グルグルと何回も何回も周り続けた。  スエットの下に着ていたTシャツが汗で冷たくなった頃、無心の反復運動が功を奏したのか、不吉な予感は影を潜めていた。どうやら発作を回避できたらしい。六畳間で修一は肩で息をしながら立ち尽くし、スエットの袖で額の汗を拭った。  ――俺は一体何なんだろう?  ふと部屋が薄暗くなったような気がして窓を見ると、雪が降っていた。ガラスの引き戸を開け、流れ込む冷気をその場でしばらく浴びた後、埃の積もった健康サンダルを穿き、ベランダへ出た。所々ペンキの剥げ落ちた手摺を握りしめる。  五階のベランダからは、向かい合う棟の右側に視界が開け、住宅街を見降ろす事ができた。鉛色の空の下、住宅、スーパー、パチンコ屋、アパート、マンション、病院、トタン屋根の自動車整備工場などが立ち並ぶ。遠くの赤い電波塔が雪に霞んでいた。  結婚し、団地で暮らし始めて既に十一年の歳月が流れていた。修一たち家族の生活は年々悪化しているように思われた。 「どうしてこんな事に……」  修一はしばらくベランダで立ち尽くし、ひとつ長い溜息をつくと、重い体を引き摺るように部屋へ戻った。整理箪笥の引き出しから義父に託されていた離婚届を取ってくると、既に記入済みである名前の横に判を押し、書き置きと共に炬燵の上に置いた。
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