第1章 発端

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「分かっとるとは思うけどのう……、妙な気、起こすなよ」そう言うと、使い古された男性器のようなドス黒い顔を更に歪ませた。 「お前みたいなもんでも、一丁前に嫁はんと娘がおるんやってのう」  修一は梶原の顔を思わず見返した。 「なんか前に三課の吉村が見かけたんやと、お前ら三人がぼろい車に乗っとるんを」梶原はニヤニヤしながら続ける。「お前は知らんかもしれんけど、一時期噂になっとったけんのう。お前みたいなもんには勿体ないエエ女らしいって。その辺のことをよ?く考えて行動せないかんぞ、えー」 「そ、それは、どういう意味ですか?」 「うちの会社のケツ持ちには、そういう事に対して積極的な人がいくらでもおるいう事や」 「――け、けつもち……?」  梶原は一瞬真顔に戻り、背凭れから体を起こした。 「なんやお前、知らんかったんか……」  そのまま腕を伸ばし、灰皿の上で煙草を弾くと、また修一へ視線を戻し、口許を歪ませた。 「侠州会や」  それは坂松の歓楽街一帯を裏で取り仕切っている組織であった。ここへ来てようやく修一は、この一年働いてきた会社が堅気でないことを悟った。 「お前もここらでひとつ男になれよ、えー、そうと違うか」梶原は机に片肘をつき、その上に顎を乗せた。「今まで散々安い稼ぎで苦労かけてきたんとちゃうんか。こんなとき体張って守ったらんでどないするんや」  確かに杏子には辛い思いをさせてきただろう。うだつの上がらない亭主のせいで、永年つらいパート勤めを続けているのだ。 「もちろん後のことやったら心配せんでもええんぞ」急に梶原の口調が優しくなった。まるで噛んで含めるように穏やかな表情で語りかけてくる。「お前が留守の間は、会社が責任もって、家族の援助もするし、戻ってきた暁には、またうちで何とか働けるように、計らってやるつもりでおるんやから」  しかしその取って付けたような笑顔の奥で、渇き切った黒目が、値踏みするかのようにこちらの出方を窺っていた。 「因みに、もし僕が断ったら……、妻はどういう……?」  梶原の顔から笑みが消え、暫く無言のまま修一を眺めていた。 「お前のう……ほんまに、マジでええ加減にしとけよ」梶原は面倒臭そうにひとつ溜息をついた。「金もない、人脈もない、終わりかけの中年が何を人並みに」吐き捨てるように言う。  梶原は首を傾けながら歪んだ口許へ煙草を運び、時間をかけて煙を吐き出した。
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