第1章 発端

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「本気で断れると思ってんのか?」  張り詰めた空気の中、修一の背中を冷汗が伝う。 「ええ加減、身の程をわきまえたらどうや。こっちが優しい言うてるうちが華ぞ。お前がいくら正論訴えたところで、捻り潰すんは訳もないんじゃ」  梶原が顔を動かさずに半分ほどになったハイライトを揉み消す。修一は彼の射抜くような視線に屈し、灰皿の中で潰される吸殻を見ていた。  重い沈黙が永久に続くかと思われた頃、 「いつまで黙っとくつもりや……」感情を抑えた低い声が響いた。  修一は俯いた顔を少し上げ、梶原の顔色を窺ったが、互いの目が合った瞬間、 「何とか言うてみい!」梶原が怒声を発し、横のパイプ椅子を蹴り飛ばした。  椅子はスチールキャビネットに激しくぶつかり、跳ね返った後、回転しながら床を滑り、畳まれた状態でパタリと倒れた。  室内はまた水を打ったように静まり返った。修一は相変わらず俯いたまま身を固くしていた。頭が混乱し、どうすれば良いのか分からなかった。 「お前が素直に言う事聞いたら、丸く収まる話やろが……」言いながら立ち上がった梶原が、ゆっくり机を廻り、その黒い影が修一の背後で動きを止めた。 「侠州会のやり方は容赦ないけんのう、お前と結婚したんを一生後悔することになるかもしれんのう……」  影は答えを促すようにしばらく佇んでいたのだが、やがて沈黙する修一の肩に手を載せると、耳元で囁いた。 「それから、世の中には色々な趣味の人間がおるいうことも肝に銘じておかんと、後で泣きを見ることになるぞ、お父さん。言うてる意味わかるか……」  そこは修一の持ち場とはメイン通路を挟んで反対側、周辺を若草色の古いNC旋盤に囲まれた風通しの悪い場所だった。むせるような切削油の臭い。近づくにつれ、そこへ別の臭いが混じりだす。先に現場へ踏み込んだふたりの警官が、ほぼ同時に顔をしかめるのが後ろから見えた。  破れた作業着と思しき水色の布地が、その半分ほどを赤黒く染めつつ、旋盤の主軸に絡みついていた。ロボットアームは旋盤のドア付近で緊急停止しており、まだ身体の一部と思しき物が掴まれたままである。垂れ下がる捻じれた紐みたいな物は何だろう。時折そこから赤黒い滴が、床の血溜まりに落ちていた。
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