第1章 発端

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 あの頃の修一には恐いものなどなかった。 「学歴だって人一倍のものがあったじゃないか」  修一自身、学歴があれば世の中上手く渡っていけると信じていた。 「私も、今は亡き女房も、本当に喜んでいたんだよ。一度失敗して子連れで出戻って来た杏子に、今度こそは本当に良い人が見つかったと言って」  義父は俯いて、テーブルの上で拳を握りしめた。 「それなのに……、なんでこんな事になってしまうんだ……」 「だから違うのよ、お父さん!」杏子がテーブル越しに父親の腕を掴んだ。「修一さんは嵌められたの。私や緑を守るために仕方なく罪を被ったのよ」 「そんなことは何度も聞いたから分かっている、問題はそういう事ではないんだ」義父はうな垂れたまま首を振った。 「いいかい杏子。問題の本質は、そんな風に扱われる存在にまで落ちぶれてしまった彼自身の中にあるんだ。他人に足元を見られて付け込まれる隙を作ってしまったんだよ。結局、まともに妻子を守れないほどの甲斐性無しだったんだ」  どうしてこんな事になってしまったのだろう。やはり最初に就職した会社を辞めたのがいけなかったのだろうか。あれが人生のターニングポイントになってしまったのだろうか。  修一が初めて社会に出た二〇〇一年、既に博士の就職には厳しいものがあった。というのも一九九一年に旧文部省の旗振りで始まった大学院重点化計画、それによって増やされた博士号取得者の数が、社会の受け皿を大幅に上回っていたのである。修一のような博士課程修了者が永年打ち込んで身に付けた専門知識、それを生かす場所は余りにも少な過ぎた。  そういった意味では、周りの職にあぶれた博士号取得者の多くが、将来に何の保証もない任期付きのポスドクやフリーターになっていく中、曲がりなりにも企業に就職できた修一はまだ恵まれていた方かもしれない。  デンコウ精機は大手自動車メーカー『トンダ』の三次下請け、足回りの部品を製造する社員七十人ほどの中小企業であった。面接のときデンコウ側からは、「専門性を発揮してもらって、安全な職場環境づくりに貢献してもらいたい」と言われていたし、修一自身そうすることが自分の責務だと強く感じていた。
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