第1章 発端

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 修一は明らかに危険と思える製造ラインや作業現場を見るにつけ、安全工学の専門家として何も出来ない歯痒さに、自分を持て余した。不具合が生じる度に、継ぎはぎを当てるが如きその場しのぎを否応なく強いられる日々。そんな事を続けていても抜本的な解決にならないのは目に見えていた。本当に必要なのは現場にフェイルセーフの考え方を浸透させることではないのか。しかし新人の修一にそんな発信力などあろうはずもなかった。  そして日が経つに連れて段々と、経営サイドの思惑に疑念を抱き始めた。――元々この会社には労働環境の安全化にコストを掛ける意思など無く、ただ対外的な偽装工作の為に安全工学博士を利用し、飼殺しにするつもりだったのではないのか。  修一は会社に於ける自分の存在意義を見出すことが出来ずに、何も変えられない無力感と詐欺行為に加担しているような罪悪感に苛まれ続け、とうとういたたまれなくなり、結局入社一年程で退職してしまったのであった。  それからの十年余り、修一の人生は崖から滑り落ちたかの如く、社会の深淵を彷徨う事となった。再就職に於いて博士号なんてものは、足枷にこそなっても決して武器になどなり得なかったのである。  義父が修一の前にそっと白い紙を置いた。「ハンコを押してくれるね」 「ちょっとお父さん、勝手なことしないでよ!」杏子が声を尖らせた。「わたし達夫婦の問題でしょ」  離婚届だった。必要事項は既に記入済みである。 「お前は緑が、『人殺しの娘』だと、後ろ指をさされても平気なのか!」 「だからそれは濡れ衣だって言ってるじゃないの!」  ふと激昂する杏子越しに隣の緑を見ると、我関せずとばかりに黙々と携帯電話を弄っている。 「事実がどうあれ今更そんなことはもうどうでもいいんだ」義父はうんざりした様に溜息をついた。「世間がどう判断するかが全てなんだよ」  工場での死亡事故、罰金五十万円の有罪判決、懲戒解雇。それらは消せない事実として残る。 「お義父さんの言う通りかもしれないよ……」修一は消え入るような声で呟いた。  杏子は振り向いて気弱な亭主に何か言おうとしたが、意外にもそれを遮るように背後から声がした。 「あのさあ、あたしを出しにすんの止めてくんない」  腹の据わった落ち着いた口調に、一同の視線が吸い寄せられた。
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