2.1.悪夢

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 おじさんは少年を起こさないよう静かに寝床から抜け出した。  自分がいつからこの居住区で暮しているのか、それは思い出せなかった。  頭に大きな怪我を負って倒れていたことを覚えている。だらだらと血を流しながら明かりの無い地下の通路を手探りで進んだ。淀んだ水に膝の下あたりまで漬かりながら、何度も足を滑らせ倒れた。  遥か彼方に小さな明かりを見つけたのだろうか、それとも乾いた場所にたどりついたのだろうか。  部屋にいた。  細くつながっていたはずの過去は、すぐにばらばらになり、やがて消滅した。忘れるのではなかった。思い出せなくなる。忘れたことすら忘れる。記憶は、もはや何の意味も持っていない。どこかで誰かと前後に流れのある正しい時間の中で生きていたはずだった。もはや過去も未来も無い。今、この瞬間だけを生きている。  やがてそれも忘れた。  長い時間が経った。  本を見つけた。偶然の出来事だった。本が読めることに戸惑いは無かった。あまりに当然のことだった。  望遠鏡を見つけた。誰が作ったのか。  鍵を見つけた。  鍵のかかった部屋で、作業途中で放置された状態の道具を見つけた。集めた道具を使って望遠鏡を作る。全てが予め定められていたことのように日々の暮らしに組み込まれていく。  地下に降りた。  騒音が障壁として設けられていること。超えるためにはマントを使うこと。ひとつひとつを、既に知っていたことを、確認しながら進んでいく。  どうして自分は何もかも知っているのだろうか。  思い出すのではない。ただ、知っている。  失われたはずの記憶を少しずつ発見しながら、さらに長い年月を過ごした。  変化の兆しを感じていた。  窓の外、遥か彼方に山羊女の宮殿が聳えている。尖塔の半ばに灯る火は夜の色、白い色に変わっている。丸天井は鈍く光を吸い込み、世界を灰色で覆う。  背後で少年が深く長く息を吐く。  朝はまだ来ない。
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