第1章

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出会い系サイトで利用している直(ナオ)というハンドルネームで私はその、伊織さんという差出人に返信メールを打つ。 久しぶりに、長く続くメールが出来るのかも知れない。 何も最初から恋人になる事を望んでいるわけでは無いのだ、ただ、見た目だけで判断されるのは気に食わないから、だからずっと、こんな風な素っ気ないメールを待ち望んでいた。 初めまして、直といいます メールありがとうございます、うれしいです 私でよければぜひ、お話し相手になってあげてください 今日の月は、いつもより白くて綺麗ですね そのまま返信すると数秒の間にそのメールは回線に乗って差出人である伊織さんのもとへ向かってゆく。次はいつ、帰ってくるだろう。 もう十時を回って夜も更けてきている、今日は帰ってこないかも知れない。そんな事を思いながら、私は自分のアパートへ辿り着いていた。 カンカンと鉄筋の階段を登って、二階の角部屋のドアに鍵を差し込む。ドアを開けて玄関に入れば、そこには愛猫が「にゃあ」と鳴いて鎮座していた。お出迎えしてくれたらしい。 「ただいま、ナオ」 私のハンドルネームである直という名前は、この子から拝借したものだ。名前に拘りを持たない私にとって、ネット内で扱う名前など到底思いつけず、かと言って本名を出すわけにもいかなかったのでナオを漢字に置き換えて使用させてもらっている。 ところでこの猫の名前がナオと付けられたのにはきちんとした理由があって、その名付け親というのは数ヶ月前に別れてしまった元カノだった。私とこの部屋で同棲していた彼女は、或る日私が拾ってきたこの猫の鳴き声聞いた瞬間に名前を即決してしまったのである。 「この子の鳴き声、にゃあじゃなくてなおって聞こえるよ!名前はナオにしよう!」 そう言ってナオを抱き上げ、まだ小さかったその背中に顔を埋めて幸せそうに微笑んだ彼女の姿を、私は未だに忘れ去ることが出来ずにいる。くだらない事で喧嘩をし、そのまま破局にもつれ込んだ相手ではあったがそれを除けば私はこれ以上無いほど彼女を溺愛していた。今でも彼女に似た後ろ姿を見かけるたび、彼女で在りはしないかとその姿を追いかけて、彼女で無い事に失望を抱く毎日だ。 率直に言えば後悔しているのだと思う。彼女と別れたことを。 私はナオを抱き上げながら、別れる原因になった日の事をぼんやりと思い出していた。
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