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0ページ 彼と私の始まりの日。
「行ってきます」
旅に出るその日。
彼はそう呟きながら、
手を合わせていた。
目の前には彼の父と母の写真。
今日は彼らの命日だった。
…彼の目には私たちは映らない。
でも確かに私たちはここにいる。
伝えたいことはある。
でも彼には届かない。
してあげたいことだってある。
たくさんある。
でも彼には触れない。
彼は今日旅に出る。
私は彼に言葉を届けたい。
私は彼を励ましたい。
私は彼の傍にいたい。
だから。
だから。
だから。
私は彼と旅に出る。
…………………………………
……………………
……
長くなるであろう旅の支度を整え、
二つの写真の前で
手を合わせ、目を瞑った。
五年前のあの日のことは
嫌でもはっきりと覚えてる。
母の悲鳴。
父の奮闘。
腕を引く彼女。
引かれる僕。
逃げる僕らと、
追う悪魔。
消えた音。
吹き出る血。
染まる部屋。
あの日消えるはずだった命の灯火は、
今もゆらゆらと揺らめいている。
この五年間僕は無気力に生きた。
失ったものの大きさと
失った悲しみに押し潰されて。
「もう忘れなさい。」
誰かが言った。
「忘れるものか。」
僕は思う。
「後を追えば?」
誰かが言った。
「それができればどんなに楽か。」
僕は思う。
「変わらないな。」
誰かが言った。
「変われないんだ。」
僕は言う。
「それでいいの?」
誰かが問う。
「変わらなきゃ。」
僕は思う。
世界は回る。
時は進む。
人は歩く。
皆動く。
体は成長した。
今を生きている。
だれど心は未だ
あの時においてけぼりだ。
でも、進まなきゃいけない。
二本の足は進むために。
二つの目は前を見るためにあるのだから。
今日、僕は旅に出る。
変わるために。
止まった心を動かして、
一歩前に進むために。
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