第1章

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「それにしても、もうすぐ中学生になる男だってのにディズニーランドに行きたいとか勘弁してほしいよ」 「いいと思いますよ、別に。ディズニーリゾート嫌いな人なんていないでしょう」  優子はそっけなく応え、バッグの中から文庫本を取り出した。クイーンの名作の新訳版。  前夜、二人は避妊せずセックスをした。そして、受精した。今この時、美佳の命は既に優子の胎内に宿っている。  過ぎたことはどうしようもない。起こったことはどうにもできない。  谷沢が寝息をたて始めた。貴様はどんなつもりでおれたちの仲人を務めたのか。披露宴のスピーチで会場を沸かせた時、どんな気分だったのか。  谷沢を殴り倒し、優子に中絶させ、そして、改めて優子と結婚する。  そんなことを考えて、すぐに却下した。  美佳に罪はない。中絶させるということは、美佳を殺すということだ。美佳の笑い声が、無垢な寝顔が脳裏に浮かび、僕の胸を締め付ける。そんなこと、できるはずもない。  そもそも、優子が僕の告白を受けてくれるのは、僕がB型だったから、谷沢と同じ血液型だったから、騙せるかもしれないと思ったから、谷沢の子を妊娠したのではないかと怖くなったから、お腹の子供に父親が必要だと思ったから。美佳がいなければ、冴えない僕なんて相手にもされなかった。  実際、僕が「結婚」と「B型」という単語を口にするまで、優子からは100回もフラれていたのだ。  優子ともっと早く出会っていれば。  そうだ、優子が谷沢と不倫をする前にタイムスリップできれば。そうすれば全ては解決する。完璧じゃないか。  天啓のように思われた思いつきを、僕は次の瞬間に否定していた。  それでは、美佳が生まれない。  僕が愛した美佳は、生物学的には谷沢と優子の娘だ。美佳が生まれるためには、前の晩に谷沢と優子が避妊せずセックスするしかない。僕は愛する妻を、憎い谷沢に抱かせるしかない。  あの日、美佳の身体検査の結果を見なければいいんじゃないか。知らなければ、なにも問題はなかった。あの時会社を休まなければ。優子を同窓会に行かせなければ。  ダメだ。子供の血液型をいつまでも知らずにいることなどできるはずもない。美佳が5歳になるまで知らずにいられたことの方が、相当な幸運なのだ。  八方ふさがりだった。完全に詰んでいた。 「間もなく新横浜、新横浜」  僕は、ループの全てを理解した。
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