第1章

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 中年男が大きなあくびをし、目覚めた。 「谷沢部長、お疲れのようですね」 「これから家帰ってまたすぐディズニーランドとか、嫌になるよ」  谷沢部長という男が目覚めたことで、さらに声を掛けにくくなった。上司の前で、見知らぬ男からナンパされるなんてバツが悪いに決まっている。もし声を掛けたら、谷沢部長は僕をどんな風に見るだろうか。  どうする。どうする?  空腹を覚えた。もう昼か。  品川が近づいていた。 「間もなく品川、品川です。品川を出ますと、次は終点、東京です」  車内アナウンスがすると、女性が文庫を閉じ、バッグに仕舞った。  ああ、降りる。彼女が降りてしまう。 「それじゃあ、お疲れ様でした」 「ああ、お疲れ、マキ。週明けまた」  彼女がバッグを持って立ち上がる。  マキ。牧、だろうか。こんなギリギリになって、彼女の名前を知った。 「失礼します」  僕の前を抜けて、牧さんが通路へと出る。  彼女が行ってしまう。もう2度と会うことはないだろう。それでいいのか。本当に? 本当に?  新幹線が止まった。  扉の開く音がして、降車を待つ人の列が少しずつ進んでいく。  僕は、列の真ん中あたりにいる牧さんの背中を眺めることしかできなかった。彼女が6号車を出て、彼女が視界から消える。窓の向こう、ホームに彼女の姿を見つけたことを喜ぶべきか悲しむべきかわからない。  ドアが閉まる。  新幹線が動き出す。  窓の向こうの、遠ざかる彼女を必死に目で追った。  彼女が見えなくなった時、猛烈に胸が苦しくなった。  やはり声を掛けるべきだったのではないか。  自分は、とてつもなく大事なものを失ってしまったのではないか。  後悔としかいいようのない感情の濁流が押し寄せてきて、目の前が真っ暗になった。 2  目を覚ますと、頬が冷たかった。  眼鏡を外し、垂れていた涙を慌てて拭った。  なにか怖い夢でも見ていたのかもしれない。  どんな夢だったのか、なにに泣いていたのかは思い出せなかった。 「あと5分ほどで名古屋、名古屋に到着します」  え?  名古屋?  新幹線の車中だった。  右隣の席には、大学生らしきカップルが手をつないでいた。  なんだ? これは?  あの女性に声を掛けられないまま、新幹線は品川を出て、東京に向かっていたはずだった。  車内電光掲示板に視線を遣る。 『まもなく 名古屋』  そう記されていた。
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