第1章

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 スーツの上着の左袖を少しまくり、腕時計を確認する。  10:59。まだ昼前だった。  窓の外を見る。近づいてくるあの駅は、確かに名古屋駅のように見えた。  夢、だったのだろうか。  あの彼女は、あまりにも僕の好みだった女性は、僕の想像の産物で、寂しさを限界まで募らせた僕の想像が作り出した存在で、実在なんかしなくて。そういうことだったのではないか。そう、納得しようとした。 「なにそれタカくん、もぉーっ」  隣のカップルが笑い合っていた。  記憶にある通りの出来事だった。  声を掛けられないまま彼女を見失った、さっきの品川までの出来事は、夢というには現実感があり過ぎなかったか。  彼女が実在しない人物だと思えるのか。  答えは、すぐに出た。 「あ、ここみたいです」  肩口から聞こえてきたのは、彼女の声だった。  グレーのパンツスーツ姿の若い女性に、その上司だろう黒のスーツの中年男性。 「失礼します」  中年男性がそういいながら、自分の前を通り窓側のA席へと腰を下ろした。谷沢部長、だった。僕は足を畳んでスペースを作ってやった。 「ありがとうございます」  彼女の笑顔は、やっぱり眩しかった。牧、さん。  彼女が僕の右隣のB席に座る。彼女に触れたらいけないと、ひじかけに置いていた右腕を腿の上に直した。 「急だったけど、取れてよかったですね」 「3連休のアタマだからな」  新幹線が動き出した。 「それにしても、もうすぐ中学生になる男だってのにディズニーランドに行きたいとか勘弁してほしいよ」 「いいと思いますよ、別に。ディズニーリゾート嫌いな人なんていないでしょう」  牧さんはそっけなく応え、バッグの中から文庫本を取り出した。クイーンの名作の新訳版だった。  すべて、記憶の通りだった。  これは、もしかして、あれ、だろうか。  谷沢部長がすーすーと寝息をたて始める。  タイムスリップというか。  特定の時間を何度も繰り返す、ループというかリピートというかリフレインというか。  あるいは、予知夢を見た、ということも考えられるか。  34歳童貞の自分に、そんな特殊な能力があったのか。30まで童貞を守れば魔法使いになれるという伝説は本当だったのか。  いずれにせよ、願ってもないチャンスだった。  彼女に声を掛けることができる。前回できなかったことに、今度こそ挑戦できる。
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