第1章

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 バッグの中から、昨晩ホテルで読み終えたクイーンの文庫を取り出した。テーブルを広げ、文庫を置いた。  彼女が目に留めてくれれば、と期待したが、読書に熱中しているのか、待てども待てども彼女が気付く様子はない。  新幹線が、小田原を通過した。  谷沢部長が目を覚ましたのは、新横浜を過ぎたあたりだったか。上司が起きたら、やりにくくなるだはずだ。  時間がない。  急げ。  声を掛けろ。 「………あ、あの、すいません」  勇気を振り絞って搾り出した声は、彼女には聞こえていないようだった。 「すいません!」  思い切って、腹から声を出した。 「は、はい? 私、ですか?」  牧さんが、文庫本から顔を上げた。怯えたような表情だった。 「あ、いえ、びっくりさせて、すみません。……え、と、あの、それ、読んでるの、クイーンですよね? 僕も、たまたま、同じもの読んでたので」  驚かせたのが申し訳なくなって、小さな声で、言った。 「あ、本当だ。すごい偶然ですね」  牧さんが、笑ってくれた。  その笑顔はあまりにもかわいくて、胸が痛くなった。この笑顔はいま、僕のものじゃない。なんとしても、彼女に近づきたかった。この機会を、絶対に逃してはいけないと確信した。 「ミステリ、好きなんですか?」 「ええ……好き、ですね」 「僕も、ミステリばっかり読んでます」 「あ、びっくりしたいから、この本の内容は言わないでくださいね」 「あ、はい、もちろんです」  会話もそこそこに、彼女はまた読書に戻った。  彼女と話せたことが嬉しかった。  けど、同じ読書家として、読書の邪魔をすることはできない。もう一度話しかけることは躊躇われた。昨晩読み終えて結末を知っている本だけど、適当に開いたところで読む振りをした。  この本の内容は言わないでくださいね。  牧さんの言葉を頭の中で繰り返した。  もう二度と話しかけないでくれということだろうか。  いきなり声をかけてきた見知らぬ男に、牧さんはどんな印象を抱いただろうか。あまりよくない印象だったから、会話をそこそこで切り上げたんじゃないだろうか。 「間もなく新横浜、新横浜」  谷沢部長が起きるまでに動かなければならない。読書の邪魔をするのが失礼とか、そんなことを言っている場合じゃない。いまが勝負どころだ。人生の分かれ道だ。ここが本能寺だ。関ヶ原だ。 「あの、たびたびすみません」
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