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バッグの中から、昨晩ホテルで読み終えたクイーンの文庫を取り出した。テーブルを広げ、文庫を置いた。
彼女が目に留めてくれれば、と期待したが、読書に熱中しているのか、待てども待てども彼女が気付く様子はない。
新幹線が、小田原を通過した。
谷沢部長が目を覚ましたのは、新横浜を過ぎたあたりだったか。上司が起きたら、やりにくくなるだはずだ。
時間がない。
急げ。
声を掛けろ。
「………あ、あの、すいません」
勇気を振り絞って搾り出した声は、彼女には聞こえていないようだった。
「すいません!」
思い切って、腹から声を出した。
「は、はい? 私、ですか?」
牧さんが、文庫本から顔を上げた。怯えたような表情だった。
「あ、いえ、びっくりさせて、すみません。……え、と、あの、それ、読んでるの、クイーンですよね? 僕も、たまたま、同じもの読んでたので」
驚かせたのが申し訳なくなって、小さな声で、言った。
「あ、本当だ。すごい偶然ですね」
牧さんが、笑ってくれた。
その笑顔はあまりにもかわいくて、胸が痛くなった。この笑顔はいま、僕のものじゃない。なんとしても、彼女に近づきたかった。この機会を、絶対に逃してはいけないと確信した。
「ミステリ、好きなんですか?」
「ええ……好き、ですね」
「僕も、ミステリばっかり読んでます」
「あ、びっくりしたいから、この本の内容は言わないでくださいね」
「あ、はい、もちろんです」
会話もそこそこに、彼女はまた読書に戻った。
彼女と話せたことが嬉しかった。
けど、同じ読書家として、読書の邪魔をすることはできない。もう一度話しかけることは躊躇われた。昨晩読み終えて結末を知っている本だけど、適当に開いたところで読む振りをした。
この本の内容は言わないでくださいね。
牧さんの言葉を頭の中で繰り返した。
もう二度と話しかけないでくれということだろうか。
いきなり声をかけてきた見知らぬ男に、牧さんはどんな印象を抱いただろうか。あまりよくない印象だったから、会話をそこそこで切り上げたんじゃないだろうか。
「間もなく新横浜、新横浜」
谷沢部長が起きるまでに動かなければならない。読書の邪魔をするのが失礼とか、そんなことを言っている場合じゃない。いまが勝負どころだ。人生の分かれ道だ。ここが本能寺だ。関ヶ原だ。
「あの、たびたびすみません」
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