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賢太郎事件帳(五) 篁 はるか
京、西町奉行所配下の医師、片瀬賢太郎は、お役目刻限が過ぎたので、奉行所を出た。お役目は、〝遺骸検め〟を仰せつかっているのだが、お役目がなければ以前に記された検め書きを見るのが日々だった。
いつもの長屋に戻ろうと歩を進めていた。と、ぶちっと右の草履の鼻緒が切れた。
(まずいな。確か、この先に履物屋があったはずだ。とにかくそこまで行こう)
と、鼻緒の切れた草履を手にして歩きだそうとした時。賢太郎に向かって歩いていた女が声を掛けた。
「もし、なんどしたら、うちが鼻緒をすげかえましょか」
と言うな否や、賢太郎の草履を手にして、自分の手持ちの小布を引き裂き、捩って鼻緒をすげかえた。あっという間に、賢太郎の草履が直った。
「ありがとうございます。お蔭さまで助かりました」
女が顔を上げて賢太郎を見た。賢太郎は女の顔に吸い寄せられそうになった。もっと言えば、女の、眼にである。
(いかん)
さっと視線を外す。賢太郎の、医師としての本能みたいなことが女の視線を外させた。
「では、お気をつけなさいまし」
女はそう言って立ち去ろうとするのだが、相変わらず視線を賢太郎から外さなかった。そのまま賢太郎の顔を見ているようなのだ。ようなのだ、と言うのは、賢太郎はまだ女の視線を感じていたからだった。
女は、美しかった。いや、それ以上に、妖艶なものを潜めていたと賢太郎は思った。歳の頃なら二十とみたのだが、何とも妖しいものを秘めているようにも思われた。着物のせいかも知れない、無地の紺色の着物にまた無地の緋色の帯を締めていた。珍しい着付けかただった。だが、何といっても、女の眼である。全てのものを吸い込むがごとくの眼だったのだ。
「賢太郎、なかなかすみに置けんな。えらいええ女みたいやったな」
と、そこへ町廻りから戻ってきた風間と辰三が近づいて来た。
「違いますよ。切れた鼻緒をすげかえて貰っただけです。
でも、あの人は、何か妙でした。わたしの、医師としての勘が、何かおかしいと訴えるのです」
「とは」
「心まで吸い取りそうな、眼です。
以前に、一度見たことがあります。……以前の人は、心を病んでいました。その時の眼と似ているのです」
「だが、今の女は、お前の切れた鼻緒を直してくれたんやろ。まともなことをしてくれたんではないんか」
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