第1章

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「胡蝶は、自分と回りの誰かを恨んでいたのですか」 「胡蝶は、高貴な生まれと聞いた。だが、故あって、尼寺に預けられた。自分の出生の秘密を知って、尼寺を出奔したようや」 「ならば、胡蝶は、我が身を我が身で苦しめて、そして恨みを他に投げつけていたのでしょうか」 「おお、そうや。成程、賢太郎の言う通りかも知れん。我が身を我が身で苦しめる。そのあとに残るのは〝怨恨〟かも知れん」 「恐ろしいことですね。あとに残った〝怨恨〟から、胡蝶を解き放ちたいですね」 「それは、医師である賢太郎の出番になるんやないんか」 「わたしが、ですか」 「胡蝶に初めて会うたとき、〝病〟のものを診た、と言うていたではないんか」 「そうです。あの眼は、病んでいるもののまなざしでした」 「では、お前の出番や」  風間に言われても、どうすればいいのか分からずじまいの賢太郎だった。また書物でも当たらないと、分かりはしまい、と考えていた。 「賢太郎、今日も胡蝶は奉行所に来たんか」 「はい。また、居留守を使いましたが」 「昼間奉行所に来て、夜は夜で春をひさぐ。よう体が持つもんや」 「だから我が身を我が身で苦しめる、そのことしか、胡蝶には残されていないのではありませんか」 「せやな」  といったきり、風間は黙った。胡蝶の苦しみから解き放ちたい、それは、今日、〝月光院〟の庵主に言ったとおりである。だが、風間にも、方策が見つからなかった。  胡蝶が奉行所に来てそのあと二日は来なかった。風間と同じ番廻りの同輩、筧にも高瀬川沿いに立ってはいないかと風間は聞いたのだが、その二日の晩ともいなかったという。風間は町廻りの記録、日誌をお奉行に出しているので、毎日何が起こったのだとか、何を探索しているのだとかは、お奉行は知っている。  今は皆が出仕してきて、お奉行から何か伝えられる事柄があれば聞く、何もなければ、町廻りに向かう刻限だった。と、そこへ、辰三が、 「旦那、旦那、胡蝶が川からあがりました。すぐ、来て下さい。片瀬先生もどす」  とその声を聞いて、腰を浮かす、風間、賢太郎、そこへ声がかかった。お奉行である。 「待て。胡蝶と言うたな。風間が探索していたのは胡蝶、そして度々この奉行所に片瀬目当てにやって来るのも胡蝶。  風間、その片瀬に縄を打て」  その場にいた同心たちは、我が耳を疑った。そして、凍りついた。 「お奉行、何故なのですか」
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