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その日、彼はいつもと違っていた。 恋人は私の心臓。 ほんのわずかの変化でもすぐに分かる。 渋谷のカフェテラスだった。 彼とは一ヶ月ぶりのデートだ。 食事をして109でショピングした。 無口の彼が、いつもより口数が多く明るかった。 何かいいことがあったのか、と思った。 夜、渋谷駅前で別れた。彼は地下鉄で帰ると言う。 私は駅へ入りかけて足を止めた。 違う。何か違う。いつもの彼とどこかが違うのだ。 あわてて引き返し、彼の後を追った。 地下鉄のホームに彼はいなかった。 地上へ上がって探した。 デパートへ向かう歩道橋の人込みに、彼を見つけた。 なぜまたデパートへ戻るのか。 彼はデパートのエレベーターで屋上へ上がった。 屋上はビアガーデンのはずだ。 誰かと待ち合わせでもしているのか。 不可解な行動だった。 屋上へ出た彼は、ビアガーデンとは反対方向へ向かう。 ひと気のない北側には何もないはずだ。 植え込みの茂みの中へ入って行く。 屋上の端の網のフェンスの前に立つ彼。 いやな予感が頭をかすめた。 彼はフェンスの前で靴を脱ぐと、靴下のまま フェンスを登りだした。 フェンスの高さは三メートル。 私は茂みから出て、思わず叫んだ。 「神山君、やめて!」 彼は驚いて私を見た。 悲しそうに顔を歪めると、私を無視して憑かれたようになおもフェンスを登ろうとする。いつもの彼とはまるで別人だった。 私は夢中で彼の脚に飛びついた。 しがみついた腕を振りほどこうと振った足が、私の顔面を蹴った。 それでも彼の左脚に、死に物狂いで抱きついた。 「離せよ!」彼は低い声で言った。興奮もパニックも起こしていなかった。冷静だった。私は両手で彼の脚を抱いた。 「なんでよ、なんでなのよ!!」私はヒステリックに叫んだ。 鼻血が出て来た。泣きながら私は彼の脚を離さなかった。
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