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インターネット上で「良書」と呼ばれるランキングを参考に、古書をインターネットで注文し、自宅で読みふける。または、インターネット上で電子書籍を読む。または、kindleで購入して読む。
そんなことが7月から続いている。
だが、こどもの送迎でふっと図書館に寄った。あれから、小説月刊誌を読み漁っている。友達と知らない町で待ち合わせをしていたときも、トイレを探して見つけたのは市営図書館だった。地域密着型の図書館は、役場を「それ用」に仕立てあげたような、ひとの手と工夫が満載で温かみを感じたのを覚えている。あのとき、図書館に寄ったのも、何かの偶然ではないだろうか。
私の家族は読書をする習慣がない。ぽろっと母が購入することもあるが、年に一度くらいで、その「流行」のタイトルはしっかりと書棚におさまり、ちらかることがない。かえって、私はというと、本が乱雑に散らばるが、5冊まではちらけていいと決めている。夫が小姑みたいに、清潔でないと子供たちに八つ当たりするからだ。
夏の暑い日ざしを避けて、カーテンすらもしめきり、布団もしきっぱなしで寝転がり、夏休みの宿題にいそしむ子供たちを尻目に、眉間にしわを寄せて、読むふけっていた。私はおばさんだというのに、まるで、10代の恋を再び味わうように、腹底から沸き起こる熱い興奮がじわじわと広がっているのを感じた。およそ10年来になる。
金原ひとみのアッシュベイビーを読んで、私は現代小説なるものに絶望した。あれから、私は「本」というものを、目的的に読むことを覚えた。金原の作った世界観は、それほどまでにも、私に傷を残した。「狼男と雨と雪」の冒頭シーンのカルタシスなき展開も、それを掠める。だが、一条の光に照らされた暗闇の中で足を抱えてうつむく私を、ゆっくりと抱き起こすかのように、私は藁半紙の香りに優しく包まれた。
今しがた返却してきたばかりの「オール読物」7月号。真っ先に、この月刊誌を手にしたのはなぜだろうか。
私の芸術観を総括したような内容だと「すばる」を読みながら気づいた。高校生のとき出会った「よしもとばなな」の作品物を読んで、「よしもとばなな」の世界の味は変わらないなと感じた。感性を並べただけの難解な言葉のやりとりが、登場人物の会話で繰り広げられることに気づいた。また、その感性で情景描写が続くことに違和感をおぼえた。
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