プロは違うねぇ!!

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私は愕然として会話を続けることすら放棄した。私の芸術観を刺激し、基礎を作ったのは叔父の存在だったからだ。私の美術館好きを親戚うちのなかで、ただ唯一肯定してくれる芸術一家だった。絵の味わい方、芸術の味わい方は、そういう生き方をしているひとたちと、私はどこか同じであると、なんとなく、信じていたのだったが、打ち破られた瞬間だった。 それは、「クレイジー」という言葉へのイメージが、おじさんと私で全然違うってことにしか過ぎないじゃない。私は残酷な話は残酷だから好きなわけじゃないし、残酷なものをとってクレイジーだなんて表現しないわ。残酷なものは、「残酷」だわ。 心で静かに泣いた。 けど、世界は本当はそういうものなのかも、と思えてもきた。 「オール読物」7月号には、小説家12人のアンケートレポートが載っている。テーマは「音楽と私」。私には大変興味深いものだった。音楽は作れないけれど、私の趣味に、小説の次点に来るのが音楽だったからだ。また、書き手にとって、書くことがどんなことかを拝聴できるいい機会でもあった。 なんのこともないレポートだった。ひとりひとり音楽への向き合い方が違っていて、それで特殊なもの、は、それほどでもなかった。だが、目を見張る気づきがあった。 12人もいて、私がほぉっとため息をついたのが2人しかいなかったこと。 その2つは、音楽との付き合い方云々の内容ではなかった。それでも、文章を追っていったときに、「これがよい」と思えたものが2人しかいなかった。小さな心の痛みが起こった。アンケートという体で文章をもらったのだから、アンケート返答らしき文章、報告文になってしかりでもあったので、それをとってどうのを言うのは卑怯だとも思うが、それでも。 2人の文章が秀でていたわけでもない。ほかの作家たちの言葉でも、このひとだからこういう書き方になるんだね、とも思ったものだ。きっと、私の趣に合う作家が12人いて2人の確率で存在する、という一データにしかすぎないのだろう。 外側の比喩、内側の比喩、をMちゃんと話をしていて分かった。このアンケートレポートで「よい」と思われたものも、心の内側の情感を伝えていることに。また、比喩が繰り広げられていることに。
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