反省しましたよっとな

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本という本に、久しぶりに触れて興奮した私は、5冊の月刊誌を借りた。毎週の恒例行事である「いぼとり」のために、息子たちを迎えに行った。1センチほどにも大きくなった私のイボは、次男のイボよりも治療が長引くだろうと、帰りの車で、後悔の哀しみに浸りながら、怒涛の説教タイムに入っていく。。。 いい子なんだけど、社会性がなくって。。。えへ そのために、家にいるのでじっと我慢して、怒涛の説教タイム。私は頑張らないヤツが嫌いだ。あと、もったいないことをすることも嫌いだし、あまえているヤツも嫌いだ。そして、感情的なヤツも嫌いだ。 ひとがひとである所以は、意思たるものをもつからだと思っている。 だが、私は7月にはいって、堕ちた。Mちゃんいわく、 「ひとをさばくために勉強するくらいなら、勉強しないほうがいい」 のだそうだ。それはそのとおりである。だが、それでも、私は裁きに裁いた。それは、私の「憎しみ」に基づいた「苦しみ」がそうさせた。また、「志」が達成されない矛盾の堂々巡りに陥っていた。 ひとは、本当に同じことを何度もやるもんだ。 「怒り」を静めることはできても、腹底にたった「激昂」は静かにきらめいて、そのきらめきを消すことはできなかった。そして、いくつかの「不穏な出来事」が私のもとに集まり、そのたびに、天然満載で、「説教」してしまった。相手に不快感を持たせたかは、分からない。 私がしたことは、ニコニコとおしゃべりをしただけだった。しかも、いずれも、おしゃべりの相手自身の話でもなんでもなかった。だが、1年前に友人から聞いた話を思い出して、もしや、と思って、友人におしゃべり相手の情報確認したところ、おそらくは、確実におしゃべり相手が反省すべき点を暗に伝えていた。 似たようなことが3件も続くと、不思議な気持ちにもなった。 ディスカッションをしたわけでもない。ただ、自然な会話の流れで、相手の判断基準となる情報とそれにまつわった私の意見を伝えただけだった。だが、確実に指摘したのだ。それは、私にとって、とても変なことであったし、一度立ち止まったほうがいいことだと思った。 私は、ひとに、そんなことをつたえる人生を送りたいわけではないからだ。
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