反省しましたよっとな

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立ち止まる前に、さんざん、霊能者とそうでないひとをわけて考えてみたりもした。霊能者たりうるものは、命が自然発生したそのときから、世界を「こころ」ありきで理解し、また、「こころ」を見て判断し、「こころ」で生きている。それになんら違和感をもつこともなく、なんとなく、そうして、生きてしまったひとたちのことを、私はそう呼ぶ。霊体質。 かえって、唯物主義たるもの、でもないが、この世的なるそれに重きを置いているひとたちをみて、「目の前にあるもの」で判断するひとたちは、「こころ」を理解するよりも、「結果物」に対して想いを反映し、投影していく。実は、私はこの思想も持っている。 あのひとはこう、このひとはああ、などとは決め付ける必要はないが、ばくっと、境界を分けて考えると、前提なるものが違うだけで、結果物まで違ってくることが見えてきた。 例えば、「防御」をするとき。 霊能者である私たちは、ひとを空間と同一化させ、自身は目的的に行動する。「おひとりさま」などはへっちゃらである。 これがなぜ、防御に値するか。さまざまな心の念をくらわない、影響させないようにするためには、こうした心身の滅却状態が必要となるからだ。このとき、自分と世界しかないので、驚くほどに知り合いすらもきづかなくなる。ひとからすれば、「相手にされていない」とすら思うかもしれない。だが、こちらは、「心」や「念」に酔わないように必死なだけだったりする。 かえって、普通のひとたちは、「言葉」や「言い回し」などで、失礼がないように、まわりくどく何かを言ったり、雑談したりする。話の内容や質をふわりふわりと変えて、真意を見えなくしたり、オブラードに包む技術を持っている。 オバカな例で言うと、近所の方が、最近の私の変貌を見て「不倫をしているのではないか」とのたまったそうだ。妹が友人から聞いてきたそうだ。うちのお母さん、変なこと言うやろー、と笑っていたそうだが、笑っていればいいもんでもないし、キレイになりすぎって言ったからいいもんでもない。
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