夏祭りの思い出

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主と少女のやり取りを見ていた一人の男の子が「えー、ずるいー」と口を尖らせて抗議する。 そんな少年の頭をポンッと叩いて、主は寂しげにこう言った。 「あの子はな、いいんだよ。特別なんだ」 「何だよ、それー。ボクも特別がいい」 深く考えて発せられた言葉ではなかったかも知れない。 だが、それを聞いた射的屋の主は、優しく穏やかな顔をしながらも真剣な瞳で言った。 「特別になんか、ならなくったっていいんだ。あの子みたいな『特別』は、もうあっちゃいけないんだよ」 「おっちゃん、訳わかんねーよ」 「今は分からなくてもいいさ。そのうち、嫌でも分かるようになる」 不思議そうな表情を浮かべる少年に笑いかけた主の目に、涙が光っているように見えたのは、夜店の灯りの加減だろうか。 人いきれと夜風に揺れる提灯の赤い光の下、翻る向日葵の裾、紺の鼻緒と白い小さな足、かわいいおさげ。 金魚すくいの水槽の前にしゃがみこみ、赤い金魚に囲まれて泳ぐ黒い金魚を指差して微笑む。 『お母さん、見て見て』 水流に乗ってクルクルと回るスーパーボールに、歓声を挙げる。 『すごいすごい、キレイだねぇ、お母さん』 甘い匂いを漂わせる人形焼きの屋台の前で、目を閉じると、胸一杯に息を吸い込む。 『すっごくイイ匂い』 少女は全身で夏祭りを楽しんでいるようだった。 そんな少女の後ろから、寄り添うように見守る母親の姿は、影になっていて表情まで読み取る事は難しい。 夜気の中を泳ぐ熱帯魚の群れ。 笑い声、歓声、泣き声、友人を呼ぶ声、母を呼ぶ声、父を呼ぶ声。 夏祭りの喧騒の中でも、少女の声はよく響いた。 『お母さん、早く』 『お母さーん!』 『お母さん、こっちこっち』 それともそれは、事情を知る露店商達にだけ聞こえるのだろうか。 参道の一番端、露店の最後尾にあるリンゴ飴の屋台では、引退間近の店主が用意しておいた新しい物を、丁寧に袋へ入れた。 それは、店先に並べてある品とは違い、彼自身が選んで買ってきた唯一つの物だ。 「おやっさん、それは?」 仕事を引き継ぐために一緒に来ていた若い男が、店主の行動を見て不思議そうに聞いた。 「ああ、これはな。商品じゃないんだ」 「商品じゃないって、何でそんな物を?」 「もうすぐ、分かるさ」 店主の言った事が理解できずに、怪訝そうな顔で、ピンクのリボンがかけられたリンゴ飴の袋を見つめていると、小さな影が屋台の灯りを遮った。
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