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彼は林檎飴を小さな器用に舌で舐め、金魚掬いでは一番小さく真っ赤な一匹をとった。
「この子、師匠にあげます」
「おや、なんでだい」
「…なんとなく、ですかね」
「そうか、ありがとう。大事に育てるよ」
祭囃子の音色が人の声に紛れて聞こえる。こうしてみると祭りもいいものだなと思うのだが、それはきっと彼がいるからだろう。
私は彼がいなければ祭りすらも楽しめない人間なのだ。ひどくつまらなく哀れで罪深い。だからこそ今日彼を祠に帰し、虚無感に浸らなければいけないことになるのだ。
それは彼と出会ったときからの必然でなるべくしてなったものだ。今更嘆いても惨めなだけである。
一年前と同じように祭りの輪から離れてあの林の中へ彼を連れてきた。
彼はこの暗い空間に来たらまた怯えてしまうだろうと不安に思っていたが、今はじっと目の前を、祠を見つめている。
「悲しい場所ですね、ここは」
「そうかい、私は静かでいいところだと思うが」
「そんな。寂しい、の間違いでは」
やはり、忘れていると言っても根っから放り投げてしまっているわけではなさそうだ。真っ暗な瞳がちらりと花火の残骸のように光ったのを見逃さなかった。
ついに私はこの子に別れを告げなければいけない。
この子をこの暗い林の中においてけぼりにして、また一人ぽっちの日々を黙々と続けなければいけない。
視界がぼやけてしょうがない。ああ、いつから私は今手に持っている金魚と入れ替わったのだろうか。世界が雫で滲んで何も見えやしないのだ。私の世界はひどく狭いのだ。
彼がすっと私の手を離した。流れる絹のようにさらっとした黒髪が暗闇の中でも綺麗に輝く。
「お師匠様、かくれんぼしませんか」
「何故だい。この夜じゃ危険だよ」
「大丈夫です。さあ、僕が鬼です。どうか、遠くに逃げてください」
「そんな、お前は」
「お気になさらず、さあ」
きっとこの子は全て思い出したのだ。私がここで躊躇していたらもっと辛い思いをさせる。これはこの子のせめてもの憐みだ。
私は泣く泣く踵を返し、小さく臆病な金魚片手にその場を立ち去った。振り返りはしなかった。
ああ、お師匠様。どうかまた来世で見つけてくださいね。
うっすら聞こえたその言葉は祭囃子と人の声にもまれて、やがて消えた。
【私の億劫な金魚よ】
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