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プロローグ
深夜――、
秋場家でコツ、コツと響くのは、チェスボードの上で駒が踊る音だけだ。
相対しているのは、秋場高広と有坂龍一。
よほどの事情が無ければ行動を共にしないこのふたりが、向かい合ってチェスに興じてはいる姿は、知るものが見ればちょっと異様な光景。
そして、景色だけが奇妙なのではない。
たかがボードゲームだというのに、盤上を眺める高広の頬はげっそりとこけ落ち、整えられていない無精ひげが汚らしく浮いている。
メガネの奥の目の下には黒いクマが縁取って、研究に夢中になれば二晩や三晩の徹夜など平気なはずの高広にしては、ちょっと信じられないほどの疲弊ぶりだ。
対する龍一は、一見、涼しい顔にみえる。
いつもと何ら変わりのない、温度を感じさせない端正な横顔。
表情の読めない鋭利な眼差しはチェスボードの上に落とされ、繊細で長い指が、次の一手を探して右のこめかみに当てられている。
しかしいきなり、チェスボードが乗ったリビングテーブルの上に、ポタリと血が滴った。
白と黒の色彩に彩られた風景の中に突然あざやかな『赤』。
「おい」
高広が顔をあげれば、龍一がハンカチで自分の顔を押さえている。
どうやら鼻血を吹いたらしい。
「……おい」
もう一度、声をかけるが、
「いい、大丈夫だ」
龍一は押さえていない方の左手で、高広を遮る。
「続けよう」
そう言う龍一の白いハンカチが、見る間に赤く染まっていく。
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