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「そうだな、見に行ってみるか」
私は、ポケットの中の車のキーを弄りながら立ち上がった。
目の前のスクリーンに映しだされたあの純愛映画も、抱擁しあった男女が、舌を絡ませながら接吻をするという情熱的なラストシーンを迎えている。
喫茶店の出口に向かって数歩歩いた所で、隣の席から声をかけられた。
「おい、お姉ぇちゃん!」
突然の大声に驚いて振り向くと、あの頬を弛ませた親父が、私の方を煙草を吹かしながら指差している。
テーブル上の灰皿の中は、彼が吸った煙草の吸殻で埋めつくされていた。
「え。あの、何でしょうか?」
私は怪訝な顔で訊ねた。
「伝票、忘れてるぜ?」
煙草のヤニで黄色くなった歯をニカッとさせて、親父は云った。
「あ。ああ、すいません……」
私は急いで席に戻り、会計伝票を摘まみ上げた。
そんな風に焦っている私の姿を見て、直樹と紅子は小さく笑った。
私の顔にも思わず笑みが浮かぶ。
今から向かう先でとんでもないことが待ち受けているというのに、不意に笑ってしまった自分自身がなんとも滑稽であった。
……それにしても。
お姉ぇちゃん、か。
女の子扱いされたのは、はたしてどれぐらいぶりだろう?
もうそれは、覚えてないぐらいに昔の話だね。
私は、紅子に対して抱いていた胸の鼓動とはまた別の鼓動を、確かにそこに感じ取っていた。
私はその鼓動の意味が分からず、首を傾げながら会計へと進む。
「ありがとうございます。また是非いらしてくださいね」
笑顔でそんなことを云うAちゃんの姿を、私はいつも通りに上から下まで凝視した。
私はまた切なくなった。
了
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