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女は、うっすらと積もった雪の上に落ちた花に目を瞠った。
――ポトリ、と。血が散ったのかと思った。
それは花壇に咲いた椿の花。力尽きるように落ちた花が、その衝撃で紅い花弁を散らせている。
眉を寄せた女が、その花に手を伸ばそうとした瞬間、後ろから声がかけられた。
「へえ。落ちるところ、初めて見ましたよ」
男の声に振り返り、女は自分では意識せず、顔をほころばせていた。
「――古崎先生」
男は身を屈めるように膝に手をついて、椿の花を覗き込んでいる。
「でも――。この落ち方、気味が悪くありません? まるで首が、落ちたみたいで」
「そうですか? 枯れる前に己から落ちてみせる。潔いじゃないですか」
「…いさぎ……よい…?」
ドクンと高く、鼓動が鳴る。震える声で聞き返す女に、男はクルリと顔をこちらへと向けた。
「ええ。そうは思いませんか? 私は結構好きですけれどね。こういう散り方」
微笑む男に、頬が熱を持っている。
「――ところで。上に白衣を纏っただけの薄着でいつまでもこんな所にいては、風邪をひいてしまいますよ。保健の先生が寝込んでしまっては、生徒もオチオチ病気にもなれない。気をつけて下さいよ」
背を向けて遠ざかって行く男から視線を逸らし、女は落ちた椿に手を添えた。
「今、この瞬間に落ちてよかったわね。結構好きと、言ってもらえたもの」
羨ましいな、とそれは声には出せず、そっと男の背中を見送る。その男の向こうから、一人の男子生徒がこちらへと歩いて来ていた。
――見覚えのない生徒。
保健室には来ない生徒なので、名前も知らない。それは特別目立つ事もない、普通の生徒だった。
だが。二人が擦れ違う瞬間、空気が変わった気がした。
視線を交わした訳でも、体が触れた訳でもない。それでも二人を取り巻く空気が、一瞬にして混ざり合い、霧散したように見えた。
それは何か、特別な関係のようで……。まるで自分には、到底入る余地などないのだと、そう、言われているようで……。
一瞬自分を見た男子生徒が、興味も無げに視線を逸らせて歩いて行く。自分の事を見たという、意識すらもないのだろう。
ポツリと独り、この場所に残されたような気になる。
ふぅ…と小さく白い息を吐いた女に、誰かが耳元で囁いた気がした。
それは懐かしく、自分の心を震わせる声だった。
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