第1章

2/2
前へ
/2ページ
次へ
一、 おれは黙ってただ見ていました。 床に敷いてある敷物をしんしんと濡らして、絶え間なく流れる赤い液体を、ただ見ていました。その根源の無機質な肉体を、ただ見ていました。もうただの物質に戻ってしまった弟の身体を、ただ見ていました。おれは弟の?に軽く触れて、そっと顔を寄せてよく見てみましたが、むろん生きてはおりません。唇はだらしなくふたつに割れ、瞳は朽ち果て、表情はまるで捨てられた人形のようなのです。おれはそのような姿になった弟を包むように抱き締めると、その腐敗した甘い香りを鼻一杯に吸い込みました。臭いとは思いませんでした。それどころか、むしろ様々なことをこの心に再興させて咀嚼しましたので、おれは自分でたいそう困惑致しました。とりあえず涙が一滴だけ、この?を伝って落っこちました。 * おれを真っ直ぐから見てくれる人はいないのだろうか。そういったふうに、毎日毎日、常に同じことでおれは悩んでいます。自分で言うのもたいそう気がひけるのですが、おれは並みの人間よりは何事もできる奴でありまして、小学校、中学校と通しても勉学において一番でなかったことはありませんし、かなり良い高校に入学仕立てのころはそれも変わることはありませんでした。おまけに、小さなころからヴァイオリンやピアノ、絵、テニスなど、勉学以外のことにも精通しております。そのせいなのでしょうか、おれの両親はおれのことを過大評価しているようで、常におれは褒められ、囃し立てられていました。おれには弟が一人いるのですが、彼にはなく、おれにだけ、という贔屓も、見苦しいほど存在しておりました。まだ小学校低学年で浅はかな考えだったおれは、そのことについて特別感を覚え、残酷にも喜んでいたのです。しかし、成長して物事の分別が付けられるようになってからは勿論そういったことの卑屈さを嫌うようになりましたし、なにしろ、すべて見透かしている弟は、いつでもおれに笑っていてくれたので尚更のことです。兄のおれと違って、特に勉強もよくできるわけでもない、何か可視的な取り柄があるわけでもない弟は両親からまったく愛されてはいなかったというのに、おれには常に優しくしてくれていました。ですから、おれは、自分には弟しかいないと常に感じていました。それは勿論今も変わらないのですが、なにしろ心の余裕がないもので、たまに弟にあたってしまう時も無いわけではないのです。 続
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加