およそ、数え切れないくらい。

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お客さんと面向かって呼ばれたおじさんは自分の正気を疑った。耳がおかしくなって鼓膜とその中が醜く悍ましいぬめった昆虫にでも変化を遂げたのかと拒絶を吠え上げたい気分だった。しかし口を開けても声は出なかった。喉は潰れたりなんかしていないのに、声にならない悲鳴すら出なかった。 殺人鬼の声はお客さんの予想を遥かに超えて、常人のソレをしていた。獣の唸り声やガラスを引っかいたような不快なものではない。どちらかと言えば、鈴を転がしたような声と言うよりは、凛とした、それこそ夜の闇には不釣り合いなくらい汚れのない澄んだ声だった。さらに言うならば、あるだけで人を惹きつける魔性の美しさがあった。 お客さんが殺人鬼のマスクの下を想像し始めたあたりで、突然頭を掴まれ思考を中断させられた。気がつけば殺人鬼のマスクに隠された顔がすぐ目の前にあった。灯も無いのに眼は未だ爛々と火を灯している。お客さんは全身から冷や汗が吹き出るのを感じていた。顔を逸らそうとしても固定されていて動けない。なんの救いにもならないが、こちらを凝視しているようで一切自分を見ていないことがお客さんの意識を保たせていた。 殺人鬼は何も言わない。呼吸を荒くするお客さんに顔を近づけたまま微動だにしない。さながら彫像のようで、恐ろしい。悪い夢なら醒めて欲しいとお客さんは神様に祈りを捧げていた。目を瞑ることすらできない状態で、ついに殺人鬼は口を開いた。 いや、笑った。 「喉が潰れているなら悲鳴は上げない。なら今晩は"首"を切る必要はないか。血が飛び散らないからコッチの方が楽でいいな」 殺人鬼は笑っていた。口はマスクで隠れていても、笑っていた。酷く残酷で嗜虐的で血に飢えているような笑みを浮かべている。少なくともお客さんにはそう見えた。 お客さんはあまりの恐怖に目の焦点が合わず、今自分がどんな体勢でいるかも霞にぼやけて無くなっていた。ひたすらに地の底に堕ちていくお客さんは、闇の中に二つの灯りを見つけて必死に目を凝らした。 走馬灯の渦巻きが薄れていき、最後の力で焦点を合わせたお客さんが見たものは、虚空に灯るあの灯りだった。殺人鬼の眼を見た瞬間にお客さんは現(うつつ) に呼び起こされて、最期を悟った。
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