アバムの野

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 二週間が過ぎた。  アバムの目は落ちくぼみ、頬はこけ、ひげは伸び放題になっていた。 痩せた腕は、骨と皮だけになってしまい、もう水を汲むちからも残っていない。  ハエがアバムの鼻の頭にとまった。 そこで前足をスリスリとさせている。 追い払うにも、もう腕が上がらなかった。 草原は、相変わらず緑の風を寄せるだけで、朽ちてゆくアバムをよそよそしく見ていた。  井戸のへりにもたれかかりながら、アバムは膝を抱えて草原の雲を眺めていた。 もう神に捧げる言葉も尽きた。 自らの境遇を憂う気力もない。 このまま死んでしまうのだろうと思っていた。 しかし、 「牛飼いのアバムよ。」 天から声が聞こえた。 それはとても暖かく、冷えたアバムの体に染み入るようだった。 「お前はよく生きた。褒美に、次に生まれ変わる場所と運命を、お前の望むようにしてやろう。金持ちか。王か。美しい容姿か。全てお前の望む通りにしよう。さあ念じるがよい。声に出さずとも、心に強く思うだけでよいから」  アバムは考えた。 この声はおそらく神さまの声であろう。 目は霞んでよく見えなくなってしまい、耳なりもするが、この明瞭で慈愛に満ちた声は、神さまの声そのものに違いない。 それなのに、アバムは何も思いつかなかった。 せっかく望みをかなえてもらえる、またとない機会だというのに、アバムはアバム以外の誰にもなりたくなかった。 里に残した妻、育ち盛りの3人の子供たち。 質素な暮らしの中にも、温かみのある村での生活。 今年生まれた子牛のこと。 それらすべてがアバムの知る世界だった。 たとえ、金を持ったとしても、アバムには使い方が分からない。 王様のもとに生まれても、字も読めない無学のアバムが、宮廷暮らしに馴染めるとも思わなかった。 さらに容姿端麗に生まれても、牛を追って野山を駆ける生活では、すぐに泥や垢で汚れてしまうだろう。  アバムは決めた。 もう何もいらないと。 (神様、せっかくですが、私は何者にもなりたくありません。かわりに私の愛する妻と、三人の子に、牛飼いとしての幸せを見せてやりたく思います。ここは良い平原です。ですが妻も子も、牛もいないでは、私のような牛飼いにとって不幸でしかないのです。どうか彼らが牛飼いとして幸せに暮らしてゆけるよう、私を生まれ変わらせてください。)  風が止んだ。  そして草原がアバムを包み込んでいった。
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