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道真に、権勢欲が微塵も無かったかといえば、確かに嘘になる。そこは、道真も人間である。しかし、実際に娘を嫁がせていた斉世親王を、今上天皇を廃して擁立しようと考えたことは全く無かった。道真の祖業は、祖父から脈々と受け継がれてきた学問であり、道真はあくまでも儒者詩人である。祖業の儒教が道真の哲学であり生き方なので、天子に尽くすことこそが、道真の家門の繁栄なのである。そんな儒者の道真に、天皇家を操って道真の思い通りにしようという意思は、まるで無い。それは、先祖に歯向かうことであり、家門を衰退させることである。
――嵌められたか!!
道真は、高御座の御簾(みす)の開けられた間から、天皇の玉顔(ぎょくがん)を注視したが、その表情は道真を睨んでいるかのように見えた。道真は、眼で無実を訴えたが、天皇は視線を逸らすと、そのまま清涼殿(せいりょうでん)に退いていった。
天皇が高御座から退席すると、諸子百官ざわめきだして、道真の噂話をし始めた。
道真は、公卿たちの様ざまな色をした視線を尻目に、内裏から退出した。
目の前の囲炉裏の火は、赤々と燃え盛っている。茂子は、時々薪を持ってきては囲炉裏に投げ込んでいる。
隅に放置されていた琵琶を、道真は、手繰り寄せて手に取ってみる。
――家から持ってきた梅酒を空けてからもう一年たったろうか……。
普段、酒など飲まない道真だったが、出発に際して宣来子が渡してくれた酒と共に、唐の都から江州に左遷された白居易(はくきょい)を想って、琵琶を持ってきてみた。道真は、生来、酒も弦も苦手だったが、大宰府の寒窓では、少しは気紛れになろうかと思って、荷物に積んだのだった。
弦の一本を引き寄せて強く弾いてみる。弦のぶうんと鳴る音に混じって、大宰府での記憶が呼び覚まされてきた。
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