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玄関で手持ち無沙汰にしていた賢治のところに現われたのは、すっかりよそいきの支度を整えた美幸だった。
「中でお待ち下さいってママが言ってます」
「そう。ありがとう」
「スリッパをお使いください」
真面目くさった美幸の物言いに思わず笑いがこみあげる。まだ会うのは二度目だ。慣れていないのは仕方ないが、おすまししている姿は愛らしかった。
初めて見る香織と美幸のマンションの居間は、さっぱりと片付いていた。背の高い家具を置かずに壁を広く見せているのがいかにも香織だ。新入社員だった香織が率先して事務所のレイアウトを変更し、スチールのロッカーと棚で息が詰まるようだったオフィスが一変した時のことを思い出す。
窓からは東京湾まで見渡せる。いい天気だ。これから三人で乗りに行くつもりの観覧車も遠くに小さく見えている。
美幸は部屋の真ん中に置かれた大きなソファーにお行儀よく座り、テーブルの上の本を手に取った。しおりの紐を挟んでおいた読みかけのページを開く。賢治のことを気にしているのか、それとも本の世界に没頭したいのか。
「何の本を読んでるの?」
「エルマーのお話」
美幸は丁寧にしおりの紐を挟み直してから本をテーブルの上にさきほどと同じように置き、賢治と目を合わせてから言った。
そんなちょっとした仕草で、ちゃんとした子だ、などと賢治は思う。考えすぎか、とも思う。
「どんなお話?」
「エルマーが龍とお友達になるの」
「龍と友達?」
「そう、龍とお友達」
「面白い?」
美幸は言葉で返事をする代わりにこっくりと大きくうなずき、また本に手を伸ばした。どうやら本当に夢中で読んでいたらしい。
邪魔して悪かったかな、そう思った賢治はそれ以上何も聞かなかった。
手持ち無沙汰になった賢治はなんとなく部屋の中を見渡す。ライティングデスクの上に飾られた一輪挿し。なんという花なのかはわからないが、鮮やかな黄色の花が飾られている。田や畑の作物や雑草はともかく、花屋で売っているような花の名前にはまったく関心のない人生を送ってきた賢治にとって香織の隙の無さは時に鼻につくことがないわけではない。気が利いているのにもほどがある。そう思いつつ、自分には無いそうした香織の隙の無さに脱帽しないわけにはいかない。
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