ノクターン ~ピアノフォルテ~

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 香織ができのいいお嬢さんのまま歳を取ることができたのは育った環境なのだろう。皮肉でもなんでもなくそう思える。お茶やお花、ピアノといった習い事だけでなく、香織の常識や礼儀作法といったものがありとあらゆる面に及んでいるように思えるのは、多分、いい意味での育ちのよさが下敷きにある。  幸せなだけの人生を送ってきたわけではないことはよく知っている。留学の直前に父親が倒れ、国内の短大に進むことになったことも聞いた。父親が亡くなったからといって生活が一変したわけでもなかったはずだが、それまでとは違っただろう。それまでが良過ぎたのだろうか。子どもの頃の習い事と言っても、一生ものとして身につけられるような類のお稽古事を、単に親の愛情のひとことでは片付けられない。  日々の農作業で明け暮れる父親とほとんど会話もせずに子どもの頃を過ごした賢治には、当然のごとく習い事の経験はまったく無かった。その代わりというわけではないが、子どもの頃から親に頼らずに生きていけるようなたくましさだけは意識していた。  一人でだけで生きていけるなどとは思わないが、自分でできることは自分でやる、それを父親の生き方から学んだ。父親と一緒に過ごす時間ではなく、父親と過ごさない、父親から何も与えられない時間が当たり前の時間だった。  自分は美幸にどんな時間を与えることができるのか、美幸とどんな時間を共有することができるのか。不安はある。経済的な問題ではなく、家族というものと距離を持たざるを得なかった自分のような人間が他人に与えられるだけの豊かさを持ち合わせているのかどうか。そもそも、家族として豊かな時間を過ごすことができるのかどうか。香織と美幸の新しい家族に値する人間なのかどうか。  香織と美幸の新しい家族になろうと決める前から、ずっと自分に問いかけ続けている。答はまだ見つかっていない。 「おまたせしました」  香織が奥の部屋から出てきた。  賢治に対しては相変わらず敬語だ。そのうち変わるのかもしれないが、今はまだそのほうがお互いしっくりくる。  今日は海沿いの水族館で巨大な水槽を回遊するマグロの群れを見てから公園の観覧車に乗り銀座で寿司を食べる予定だ。家族で一緒に水族館に行ったことのない美幸のために香織が考えたコースだった。
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