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家族で水族館に行ったことがないのは賢治もだ。美幸のためにと言いながら香織は間違いなく賢治のことも考えている。やはり香織にはかなわない。
公園で食べるお弁当だけでなく飲み物や敷物も香織は当たり前のように用意していた。
賢治と北村の下で働いていた時も香織は本当に仕事ができた。ダントツだった。
車は日本を出る時に手放していた。今日は香織の車ではなく家族用のワンボックスタイプを借りて賢治が運転する。いつもと違う車に美幸が浮き浮きしているのはすぐにわかった。
「ママったら、自分ではやんないんだよ」
つい最近まで逆上がりができなかった美幸のために香織が公園の鉄棒で美幸を特訓した話をしてくれた。
「だってママ、もうおばさんだからお尻が重たいの。ママだって子どもの頃はできたわよ」
美幸と話す時は敬語じゃないんだな。当たり前か。
「おじさんは四年生になるまでできなかったな。体育で鉄棒だけが苦手だった」
「えー、四年生で逆上がりできないなんて信じられなーい」
「美幸だって三年生になってママが特訓に付き合ったからようやくできたじゃない」
「そっか」
何に納得したのかはわからないが、ルームミラーに映った美幸の神妙な顔を見て賢治は和んだ気持ちになる。他愛もない会話でお互いの心がほぐされていく。美幸との距離が縮まっていくのを感じる。
お行儀の良さをすっかり忘れた美幸が口を半開きにしたままマグロの回遊する巨大な水槽に張り付いていた。美幸の無邪気さが嬉しかった。
水槽の中の水そのものが発光しているかのような青い光が美幸のシルエットを際立たせる。今この瞬間、美幸は光り輝く水槽を独り占めしていた。
賢治と香織は後ろから美幸を見守っていた。他に誰もいなかった。お互いの手をそっと握った。
「次に来てくれる約束、美幸と。お願いしますね」
香織が小声で言った。
「わかってるよ」
賢治も、わざと唇を香織の耳に触れるほど近づけて返事をする。香織がほんの少しだけ肩を持ち上げた。
寒風に身を縮めるどころか逆にそれに向かって誇らしげに毛を膨らませてそそり立つペンギン達を見た後は食事の時間だ。
まだ外でお弁当を食べるような季節ではなかった。風も強い。それでもこの時期には珍しいほど強い日差しを感じる。香織が用意した暖かい飲み物のおかげで震えもおさまった。
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