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「トルコ行進曲だ」
ソファに寝そべっていた光則は、投げ出した自分の足の親指をみつめながら、そうつぶやいた。
「えー、パパ、この曲知ってるの?」
優希はいつものように語尾を上げた。
優希がどうして自分の話を全然信用しないのか、いつものように光則にはわからない。バカ正直というわけではないが嘘つき呼ばわりされるようなことはないはずだ。優希が語尾を上げて何か言っただけでイラついてしまうこともないわけではない。つい怒鳴ってしまうことも。
だが、今はなぜか優希の口調などまったく気にならなかった。優希の手は鍵盤の上で完全に止まっていたが、光則の頭の中では曲の続きがはっきりと流れていた。
懐かしい響きだ。優希が生まれる前の遠い記憶。
スーパー「ハヤタヤ」の店内に設置されたスピーカーから割れた音で流れてくる「トルコ行進曲」が三時半のレジ点検の合図だった。いつも同じ曲が流れていた理由を知ったのは、ハヤタヤでバイトを始めた高校生の頃だった。レジ打ちと段ボール箱の整理をやっていた。専門学校を卒業して正社員になったのはバブル絶頂の頃だ。
トルコ行進曲が流れると釣り銭の入った金銭袋を持って事務所からレジに向かう。ベテランのパートは光則が来るより前に万札を束にし、釣り銭表のチェックを終えていた。売上のことで軽口を叩いたりしながら、万札を回収する。けっこうな金額だった。
回収した袋から取り出した札束を金銭係のおばさんたちの机に積み上げる。インクと紙の匂いに加えて饐えた汗と錆びた鉄の匂いがたちこめる。金銭係のおばさんたちが、つまらなさそうに、だがどことなく優雅にも見える手つきで扇のように札束を広げていく。
「パパァー、どうしたの、変だよ」
優希はすっぽかされたのが気に入らなかったらしい。
「ん、ああ。んん」
光則の返事が返事になっていなかった。
「もう、パパ、なんなの」
「いや、なんでもない」
そう、なんでもない。ただの思い出話だ。
「ママ帰ってきちゃうぞ。練習しなくていいのか」
「ぶー」
口を尖らせながらピアノに向かった優希が曲を最後まで弾き終える頃、雅恵が美容院から帰ってきた。
苦手なパーマ液の匂いに光則は思わず咳き込みそうになる。
優希はピアノの椅子から飛び降りるようにして雅恵に駆け寄り抱きついた。
「うにゅにゅにゅにゅぅー」
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