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雅恵が優希の頬に自分の頬をすりつける。
「ママァー、くすぐったいよぉー」
雅恵と優希はいつもこんな感じだ。仲良し親子。光則が仕事をしている間に二人で出かけたりもしているらしい。どこそこのお店のなんとかが美味しかったという話を耳にした光則がそれとなく聞いてみても、話してなかったっけぐらいの反応なのだが。
雅恵は昔からそうだった。一人でどこかに行ってもそのことを特に光則に話したりはしない。聞けば答えるし秘密にしているとか話したくないという風でもない。
優希もそっくりに育ってきた。
優希が小学生に入って最初の夏休みの前に、ランドセルにぶら下げていた防犯ブザーがいつの間にかなくなっていたことがあった。雅恵に聞くと、もうとっくに知っていた。一ヶ月ほど前に学校帰りの公園で友達とランドセルを背負ったまま走り回っていた時に立ち木に引っ掛けて失くしてしまったのだそうだ。
すっごいオトがして大変だった、と優希が言った。でも、パパに言って新しいの買ってもらわなきゃねって話してたんだけどすっかり忘れてたわ、と雅恵は笑った。優希も笑った。もっと早く言ってくれと、その時はムッとしたが、普段からもっと優希のことを見ていないとダメなのは自分だと反省もした。
たまに雅恵や優希がとても遠くにいるような気がすることが、光則にはある。
子どもだった雅恵のことを思い出す。
その頃はまだ八百屋だった「早田屋」は、近所の人々から親しみを込めて「早田屋さん」と呼ばれていた。雅恵は早田屋さんの一人娘だった。雅恵の父と母、早田さんと奥さんは早田屋の店頭に立って商売をしていた。早田さんがいつもかぶっている帽子の横には数字のバッジが付いていた。それが市場に出入りする業者のためのものだということを、子どもだった光則はまだ知らなかった。
あの頃の早田屋の店内はひんやりとした土の匂いがした。昔の八百屋の匂いだ。土の匂いのする店内に雅恵が一所懸命に練習しているピアノが小さく聞こえてきた。娘さんの姿はあまり見かけた事がなかった。
「パパ、晩御飯は大丈夫?」
と、雅恵に聞かれて、光則は我に返った。
「ああ、炊き込みご飯、さっきセットしておいた」
「炊き込みご飯なのぉ? ちょっと、私がパパの炊き込みご飯大好きなの知ってるのに、すぐに食べられない日に限って炊き込みご飯なわけ?」
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