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遺族控室と書かれた畳部屋には、やって来た佐伯の気配にも気づかぬまま鏡の中の自分を見つめる女性の姿があった。真っ黒な着物に身を包んだ彼女もまた、先ほど見た映像のように微笑む面影はなく、虚ろに目を開いている。その傍には、小さく寝息を立てる男の子がいた。佐伯の発した声で我に返り、すみませんと近づく姿にも活力は感じられない。
「東京地検の佐伯と申します。この度は…。」
結しない常套句に頭を下げた彼女は、自分の事を直子と名乗った。
「あの、やはり主人は、殺されたのでしょうか。」
直子の声は、もう何十年も口を閉ざしていたかのようにかすれている。その姿に、これ以上かける言葉が見つからなかった。
「今日は挨拶に来ただけですので、お話を聞くつもりはありません。」
俯きがちになった目線が机へと向く。そこに置かれていた名刺に目が留まると、佐伯の表情は一変して鋭いものに変わった。
「私の前に誰かが?」
「ええ、会社の顧問弁護士の方が…先ほど。」
直子が手に取った名刺に刻まれている文字は、佐伯がよく知る人物の名をかたどっていた。
「何か話をされましたか。」
色々…と言う直子の顔は、先ほど以上に曇っている。
「損害賠償だとか、示談だとか難しい話ばかりで…ほとんど理解できませんでした。」
「気にしない方が良い。滅入っているときにやって来て、何かと難しい言葉を並べるのがこの人のやり方ですから。」
「…お知り合いですか?」
名刺に目を落とした直子の顔が、何かに気付いた様子に変わった。書かれていた名前が、佐伯と同じ苗字をしていたからだ。
「えぇ。」
その名をを見下しながら、暗く、そして冷たい声を上げた佐伯の眉間は、更に深く皺を刻んでいる。
「簡単に言えば、私の兄です。」
この兄の存在は、こんなちっぽけな紙ですら彼に苛立ちを与えるようだ。
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