16人が本棚に入れています
本棚に追加
でも、もう蛍の季節ではない。小学生の僕でもそれくらいはわかるのだ。
井沢君が手を天に向けると、その黄色い光は井沢君の手の周りに集まってきた。
「僕はね、いつもここでお父さんとお母さんに会えるんだ。」
井沢君はそう言うと、いとしそうにその光に触れた。
僕には意味がわからなかった。
意味はわからなかったが、井沢君をやさしい光が点いては消えて包み込んでいたことは確かだ。
そして井沢君が人差し指を立てると、その指先に一匹の蛍がとまった。
そして、僕に差し出す。
その光は僕の人差し指にともり、僕に囁いた。
「ありがとう。」
井沢君が、今まで見たことも無いような優しい顔で微笑んだ。
2学期になって、学校へ行くと、もう井沢君の姿はなかった。
井沢君は叔父さんの転勤により、他所の町に引っ越していったのだ。
僕は、寂しさを覚えた。
せっかく井沢君との距離が縮まって、これから友達になれると思っていたのに。黙って行くなんて、水臭いじゃないか。井沢君。
それから、夏が来るたびに、あの川原へ足を運んでも、二度とあの幻想的な蛍の舞いは見ることができなかった。
井沢君、お父さんとお母さんも連れて行ってしまったのかな。
だとしたら、僕は良かったと思う。
井沢君が寂しくないようにと僕は願う。
あれから10年が過ぎた。
僕は、おじいちゃんとおばあちゃんの農場を受け継ぎ、農業をはじめていた。まだまだおじいちゃんもおばあちゃんも健在だ。もちろん、母も。僕が、トラクターに乗っていると、小さなバス停に、この町には不似合いな、洗練されて垢抜けたスーツ姿の青年が立っていた。
僕に向かって手を振っている。誰だろう?
僕のトラクターはモタモタと、バス停に近づいて行く。
「もしかして、井沢君?」
僕は首にかけたタオルで、顔の汗をぬぐった。
「佐藤君、ひさしぶり。」
あの日のような笑顔で、僕に微笑みかけてきた。
「就活で近くまで来たんだ。懐かしくて、ついバスに乗って来ちゃったんだ。」
井沢君は大学生で、ただいま就職活動真っ最中だそうだ。
あの頃のちょっと異端児の面影はほとんど無かった。
僕は、井沢君を自宅に招き、お茶でもてなした。
「あら、井沢君、立派になっちゃって。」
母はひとしきり懐かしんだ。
最初のコメントを投稿しよう!