第1章

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「奸賊井伊直弼、覚悟!」 一八六〇年、三月三日の日。 雪の降る寒い日であった。 駕籠に乗って登城していた大老井伊直弼は薩摩藩士一名含む水戸藩士ら十八名によって暗殺される。 動乱の幕末期の始まりである。 桜田門外の変が起こった背景には井伊直弼による大弾圧が原因であり、後に「安政の大獄」と呼ばれた。 時代の流れとしては日本が鎖国から開国へと向かう道のりである。 それはペリー来航の際に、彼は老中阿部正弘に意見を求められ「一旦開国し外国と貿易を行って軍備を整える」というものだった。 多くの諸大名らが鎖国と攘夷すべしという中、世界を見据えていたこととなる。 時代は確かに味方していた。 十二代将軍家慶が亡くなって家定が将軍となるが、家定に子がおらず継嗣問題があがる。 井伊直弼ら「南紀派」は血筋を重んじ紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を、松平春嶽ら「一橋派」は英明な将軍をと一橋慶喜をそれぞれ立て激しく争うことになる。 南紀派の工作により井伊直弼が大老となると強く押し切る形で独断により「日米修好通商条約」を調印し朝廷の怒りを買って対立してしまう。 さらに調印の責任を老中たる堀田正睦と松平忠固に転嫁し罷免する。 そして抗議にきたことを逆手にとり一橋派を謹慎などにするなどして勢いを削ぎこれに勝利、無事に慶福を将軍となる。 だがこれは朝廷を蔑ろにしてしまい幕府が反感を買うことになる。 朝廷は水戸藩に直接勅使を下し、これに井伊直弼は幕府を通さず下されたことに大いに激昂。 これを水戸による謀りとし安政の大獄による弾圧をより厳しいものとした。 無論井伊直弼とて日本の未来を案じてのこと、だがあまりにやり方がよがりであり過激であり、結果的に水戸藩を脱藩した浪士に討たれる、不利な条約を結ばされる等、幕府の権威を失墜させ諸藩の反幕及び尊王攘夷の勢いを焚き付け煽ることになる。 (尊王攘夷とは朝廷、ひいては天皇をたて諸外国勢、外敵を討ち払う事) 佐幕派も倒幕派も、目的は日本を外国から守ること、対等の国とすることに違いはない。 ただ思想が違うがために多くの命が散ることとなる。 大政奉還まで七年、 箱館戦争終結まで九年。 のちに唯一正しき戦争ともいわれた幕末維新戦争。 短くも苛烈なこの国の開花はこの時始まることとなる。
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