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心臓が今まで体験したことがないほどに早く脈動し、全身から止め処なく汗が流れ落ちた。顔面は蒼白、鼻腔を往来する呼気は荒い。
男は全身の力を振り絞り、身を捩った。
しかし、頑丈に固定された革製の拘束具は微動だにせず、ただ徒らに身体に痣や傷をつくるだけであった。
次第に鮮明になる痛み。皮肉なことかその痛みをもって、男は知ることとなる。
──これは夢ではなく現実なのだ、と。
ここにきて、暗闇に目が慣れてきた。次第に広がる視界。
暗闇に慣れたとしても、例えようのない、しかし絶対的な恐怖が男の心を捕らえて離すことはない。
いや、この場合に限っては、視界など戻らなかったほうが幸せだったのかも知れない。
男は、自分が寝かされている寝台の隣に設置されてある大きな水槽の存在を察知し、それに視線を向けた。大の大人が身体を横にしても平気で全身を漬けることが出来るほどの大きな水槽を。
緑色の半ば透明な液体に満たされたそれは、柑橘類を思わせるような甘く酸味を帯びた香りを強く漂わせていた。
恐らく──いや間違いない。
自分を眠りの世界から、恐怖の現実の世界へと誘った香り、悪魔の香気の正体はこれである、と。
そして、その水槽の中に男は見た。近い未来、自分が辿るであろう末路を。
球状か、やや卵型に近い『それ』は、水槽を並々と満たした半透明な緑色の液体の中を、色濃い靄のようなものをゆっくりと引き連れながら漂っていた。
液体の中を、ゆっくりと漂う『それ』は、角度によってありとあらゆる形を見せる。
ある時は球形、またある時は卵型、そしてまたある時は──
水中を自由に漂う『それ』が水槽の内壁を打つ。
その刹那、男は見た。
硝子の壁面に映し出された物体の表面を。
水分によってふやけ、原型すら留めてはおらぬ『顔』であった。
水槽の中を漂う『それ』とは──人間の首。
胴体から切り離されてから、それほど時間が経っていないのであろうか、その首の切断面と思しき箇所から血は靄と化して、首と伴って液中を舞う。
男は、恐怖と絶望のあまり、必死で叫び声をあげようとした。
しかし、猿ぐつわを噛まされているせいで、それは叶わぬ。知らぬ間に口の端が切れ、口元の布に血が滲み出す。
水槽に漂っていたのは、人間の首だけではない。
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