第1章

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 <1>  朝霧のかかった渓谷。  静かで心地よい渓流のせせらぎを、鋭く風切る音が引き裂いた。  音の主は、まだ陽光の届かぬ薄暗い渓流、その川岸に立つ一人の細身の男。  男は、鎧の下地と思しき黒い衣服のみを纏い、正眼に剣を構えたまま不動の姿勢を保っていた。  両の手に握られているのは、両刃の剛剣。切っ先から柄まで含めると、その長さは、成人男性の首の付け根の辺りまでに達する。この場に、彼と対峙する者がいたとしたら、その剣の重厚さに威圧され、慄然し、足竦むことだろう。  数瞬の間、不動の姿勢を保っていた男は静かに剣を上段に構え、振り下ろす。  細身の体躯から繰り出されたとは到底思えぬ程の速度を伴い、振り下ろされた剣は再び空を鋭く切り裂いた。次いで、前に踏み出していた右足を、摺り足で更に半歩ほどの距離を進め、腰を落とす。  刹那、下段から斬り上げ、そこから構え直し、左から右へと横に薙ぐ。  その一連の動作は、僅かな邪念の介在も感じられぬ形式美にも似た様相。しかし、その所作より繰り出された剣からは、烈風のような唸りをあげていた。  鋭さと速さ、そして重さを伴った唸りは、その刃に捕らわれたものの命を掻き攫う、死神の鎌の呻きを重ね見るかのよう。  心奪われる程の美麗にして、肌が粟立つ程の戦慄──この二律背反は、まさに魔性と称すべき業。  男は、その細身の体躯に似合わぬ重厚な大剣を、まるで第三の腕のように扱っていた。  無論、それは凡人の一夕の努力で身につく類のものではない。  類稀なる身体能力をもった者が、幾日も幾月にも渡り研鑽された果てにこそ存在しうる形である。  曙光がこの渓谷にも射しこみ、かのような戦慄の剣技、その主の詳細を照らし出した。  若い男。黒髪の青年だった。  けして、絶世の美青年という訳ではない。しかし、瞳の奥に宿るのは気高さと真摯さであり、その眼差しに魅入られた者は、やがて彼に良い印象を抱く事だろう。  彼の名はレヴィン。グリフォン・フェザーと呼ばれる街に駐在する騎士隊に所属している若き騎士である。  レヴィンは、自らの視界に飛び込んだ曙光を意識することなく、最初の姿勢に戻り、再度先刻の動作を繰り返した。  上段からの振り下ろしから下段からの切り上げに繋ぎ、そして中段からの横薙ぎで締めくくる。  ──剣技の基本的な動作。
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