第1章

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 <1>  宵闇に包まれた山道。  肌刺すような氷雨が降り頻り、泥濘む地面を打ち鳴らす。  山の住人たる動物達は皆、巣穴に篭って息を潜めては、この寒さに震え、または闇に脅え、いつ来るかも解らぬ朝の到来を夢見て眠りについていた。  故に今、この山を支配しているのは漆黒の闇と雨音のみ。  常軌ならば、この過酷な環境下にある山中に人間の類が足を踏み入れる筈はない。  だが、この闇と冷気の世界は今、一人の来訪者を迎えていた。  泥跳ねの音を伴い、その者はやってきた。  闇を照らす灯りの類も、雨風を凌ぐ為の装束も、また山岳に挑む為の装備の類も一切身につけず、唯一その身に纏っているのは周囲の闇に溶け込むかの如き漆黒の衣装のみ。  このような軽装であれど、その者は闇に脅える訳でもなく、また辺りを支配する冷気や氷雨に震える訳でもなく、ただ前へ前へと歩を進めていた。  容赦なく降り頻る雨によって濡れた長き黒髪は、真白き顔にへばりつき、更には大きく開いた胸元に不規則な模様を作り上げ、そしてその先端は布地の隙間に潜り込んでは、豊満なる乳房に纏わりついていた。  来訪者は女であった。  彼女は終始無言。だが、紅を差した唇から洩れる白き呼気は荒く、濡れた髪の隙間から覗く両眼は瞬きを忘れたかのように見開かれ、只管に前方を見据えていた。  そして、その瞳の奥に宿る光は虚ろ。まるで夢現の狭間に彷徨っているかのように虚空を眺め、歩むその足取りはどこか覚束ない。  それでも女は歩いていた。何かに誘われるかのように。  傍目には、宛てもなく山中を彷徨う遭難者の様相。  だが、彼女が本当の遭難者ならば、一刻も早く麓の集落に救助を求める為に下山の道──即ち、この山道を下らんとすることだろう。  だが、女が歩んでいるのは延々と続く上り坂。そう、山頂へと至る道である。  故に、来訪者は遭難者に非ず。何らかの目的をもって、この山に挑まんとする者であった。  延々と続く漆黒の道を歩む女の虚ろなる瞳に、不意に青白い光が宿ったのである。  彼女が見たのは灯火。先刻より見据え続けていた虚空の彼方にて浮かび上がっては点と滅を繰り返す、小さな鬼火であった。  黒衣の女は、常におのれの前方にて揺れ浮かぶそれに導かれ、この山を訪れていた。  ここが何処であるのかという疑問──  この過酷な環境に対し、無防備に等しき身形でいる理由──
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